※1話で主人公がバイトを上がった後のシーン



 けれどその後、私はここではない別の場所で、常連さんに会うことになったのである。

「沢田綱吉って覚えてる?」
 動揺の消えない先輩をなだめて店を出、駅のホームへ降りる途中、後ろからそう声をかけられた。妙に耳馴染みのある声だと思って振り返ると例の常連さんがこちらを見て笑っていた。目が合うが否や右隣に寄ってきて、一緒に階段を下りる形になる。
「え?」
「急にごめんね、オネーサン。お仕事お疲れさん」
「あ、はい、ありがとうございます…」
 足の長い常連さんは階段を一段飛ばしで降りていく。ついていく必要はこれっぽっちもないのに、頑張って早足で降りていると、ごめんごめん、とこれまた笑って歩みを遅くしてくれた。
「別にナンパとかじゃないからな」
「はは…」
「んでさあ、覚えてる?沢田綱吉」
「お知り合いなんですか?」
「覚えてんだな?」
 俺はまああいつの仕事仲間みたいなもんでさ、頼まれごとされてんの。そう言って2番ホームの方へ歩いていく。私は逆方面に乗りたいのだけれど、このままついていくのも、無視して帰るのも嫌だったので、また広い歩幅で歩き出そうとする背中に声をかけた。
「あの、」
「ん?」
「私、こっちなんですけど」
「あっそ。今日はこっちだから」
「今日はこっち?」
「そう。今日はお前はこっちに乗るの」
 嫌な予感がかなり確信に近くなる。この人、やばい人だ。いやいや…と苦笑しながらじりじりと後退すれば、左腕が伸びてきて、私の肩に触れるか触れないかぎりぎりのところで手を止めて、私が緊張に細い息を吸ったところで、一気に間合いを詰めて耳元でこうささやいた。
「このチップ、埋めたまんまじゃヤバいらしいんだよね」
 片腕で抱きしめられるような形にはなっているけれど、彼は私に一切触れないままそう告げるだけ告げて、静かに離れた。ICチップの埋められた私の右肩に添えられていた手も離れてしまうと、その手はポケットに突っ込まれた。そして子供のように小首を傾げると、もう何も言うことはないよ、とでも言いたげにうししと笑った。

 確かに私の右肩には個人識別のためのICチップが埋め込まれている。それは私が「天使」だったころに付けられたもので、あの施設から逃げてきた時に使い物にならなくなったはずだった。沢田さんだってそう言っていたのに。
 今までカウンター越しに触れ合ってきた、あの気持ちのいい客はもういない。とりあえずこの手紙渡しとく、と、上着のポケットから取り出された重たい封書を受け取った私の指先は、今日が3月だからということを抜きにしても、青白く冷えきっていた。




「簡単に言うとさ、俺はお前の護衛を任されてんの」
 アルバイト先で見たあの仕草のやさしい男はどこへ行ってしまったのか。頭の後ろで手を組んで、踏ん反り返りながら喋るこの男は本当に常連の男と同一人物なのだろうか。アルバイト先の最寄駅から3駅離れたところにあるこのこぢんまりとした喫茶店は貸切なのか何なのか、客は私と男しかおらず、いよいよ身の危険が眼前に迫ってきていることを全身で察知していた。いつ死んでも別にいいと思っていたけれど、いざ死期が迫るとやっぱり恐怖が先立つ。粗いレースのカーテンからくすんだ光が差し込んでいる。逃げられない。
「そうなんですか」
 大変ですね、みたいな、二言目を口に出すほどの精神的余裕がない。
「今まであのカフェに通ってたのもお前が生きてるかどうか見張っとけって言われてたから。そんな上等なもんでもないから王子的には不満だったけど」
 まあでもラテはぼちぼち美味かったかな、と、自称王子は後ろを振り返って店主にホットミルクを頼んでいる。これ以上背を伸ばしたいとでも言うのだろうか。
「そもそも沢田さんとはあれきりなのに、どうして今更」
 後ろを振り返ったままだった男は、ん?と首だけ振り返ってから、考えるような仕草で上半身もこちらへ戻してきた。今度はテーブルに頬杖をつきながらめんどくさそうな声で喋る。
「それはお前が一番よくわかってんじゃねーの」
「はあ…」
 頼んでもいないのにアイスティーが運ばれてきた。これはやばいやつだ、睡眠薬とか入れられてるやつだ、と、もうすべてのものが疑わしくなりながら刺さっているストローで中身をかき混ぜていると、頬杖をついたままの男は横を向きながらくすくす笑っている。この男は感情のすべてを笑いのバリエーションで表現できるらしい。
「なあ、今お前、このアイスティーに睡眠薬でも入ってるかもって思ったろ」
「いや、思ってないです」
「あっそ。入っていないから。俺お前みたいな女趣味じゃねーし」
 私の返事を聞いているのかいないのか、さらにおかしそうにしてくつくつと喉を鳴らしている。「とりあえずその手紙読んでみたら。俺は読んでないからなに書いてあんのか知らねーけど」

 それもそうかもしれない。ひとまずアイスティーには手をつけず、硬い紙でできた重厚な封筒を開いた。