雨で濡れている兄ちゃんが好きだった。いつも嘘で塗りたくってしまった冷たいアスファルトのような笑顔をしてる普段よりずっと、好きだった。ふわふわとした工芸品のような、まるで触れてはいけない、どこかの国の秘宝のように輝くブロンドの髪はいつも私の心を惹き付けて離さなかったけれど、その髪が雨粒に打たれて兄ちゃんの頭部にそっと、寄り添うようにするその瞬間が好きだ。なぜ同じ親から生まれたのに私は兄ちゃんを触れてはいけない存在のように思うのか。息をするのも忘れるほど、狂ったように見入ったものだ。
「兄ちゃん」
私の髪は黒い。墨汁に何時間も浸したみたいな私のそれは、兄ちゃんのように風にそよぐことはなかったし、単純に重力に負け落ちていった林檎と同じで、ストレートに伸びていくだけだった。雨が降っても雷が鳴ってもそれは同じだった。私はただ黙って兄ちゃんの頭を見つめていた。あの柔らかい髪が雨粒に包まれていく様といったら!私は途端に世界で一番の幸せ者になることが出来るのだ。兄ちゃんが雨の日、わざと傘をささないで外に出ることを知っているのは、私だけ。秘密にしている小さな宝箱を手のひらで包み込むように、私は昔から、兄ちゃんのこの姿をこっそりと見つめて過ごしてきた。
「兄ちゃん」
その数日前から見せるようになった、目の奥に光る「何か」は一体何だったのか。



その日、

兄ちゃんは泣いていた。大きな大きな、それは私と兄ちゃんがドミノを果てなく並べ続けてもまだ余るくらいの、大きな寝室で泣いていた。静かに泣いていた。私もじっと息を殺していた。大きな晩餐会の終わる、夜中のことだった。私は晩餐会で母様に叱られるくらい良く食べたもので、そのせいでトイレに起きたところだった。耳がキン、と張りつめたように固まった。非日常とも言えるその情景は、まだほんのりと上気していた私の頬の温度を一気に降下させた。だけれどついに「兄ちゃん」と、静かに静かに呼んだ。小鳥がため息をつくくらいに、静か。ゆっくりと兄ちゃんが振り向いた。たっぷり十秒数えただろうか、外では空が何かしら悲しみの準備を始めていた。私の髪のようにどっぷりとした、重い重い、雨が降り始める。
その部屋には雨音のみが響いていた。いや、閉め切られた部屋で微かに聞こえる雨音も、すべてその血溜まりに吸い込まれてしまっていた。そこにはどんなに抗っても、勝てることの出来ない力が息をひそめている。空が光った。この前、兄ちゃんが目の奥で光らせたそれと酷似していることに私は気づきたくなかった。…同じだ。兄ちゃんは空と同じだ。もう一度光った。暗闇の中に薄く2人の輪郭が浮かぶ。ベットの上の死体は父様と母様だった。
そしてあの柔らかなブロンドにいつまでも触れられなかったのは、兄ちゃんがあまりにも遠かったからだと言うことに気がついた。
「兄ちゃん?」
私はもう一度兄ちゃんを呼んだ。お願いだから返事をして欲しい。そこにいるのは殺人鬼なんかじゃなくて、あの美しいベルフェゴール兄ちゃんだと早く安心させて欲しかった。そして笑って言って欲しい、「酷い顔してるぜ」って。それで悪夢は終わる。
はずだ。
はずなのになんでだ。
なんで何も言ってくれないの。



兄ちゃんは、何も言わずに、ただ、泣いていた。

その写真のような一場面は、私が見た、世界のどんな景色より、美しかった。



今でも思い出せる。まるで旧式のカメラみたいに色褪せた記憶のネガフィルムには、黒い黒い目をした、誰よりも美しい悪魔が立っていた。犬のような猫のような不気味なその瞳は、次の瞬間私の右横すれすれにナイフを突き刺した。

ああ、彼はもっと泣き出してしまった。

声なく膝を地につけたジル王子はまだ死なない。2人とも洪水のように、あの雨のようにごうごうと涙を流した。私は思った。空は広すぎる。そしてその主がお互い近すぎた。足がジル王子の血で生ぬるく濡れた。私は目をゆっくりと閉じた。そして想った。ジル王子も雨に濡れたらきっと綺麗でしょうね。