東風(コチ)乗せた天人(アマビト)



 射るような日差しを避けるように二階の屋根の下へ、日影へと忍ぶ青年が一人。
 肩口にかかる紫紺に揺らぐ髪が、風にさらわれた。
「良い風が抜けるなぁ」
 そう言いながら、綯凜は瓦の上へと腰を下ろした。

 とある商家の瓦屋根。
 綯凜がひいきにしているこの店の二階からは江戸の町の大通りが見渡せた。
 ここで見える町並みが、綯凜にはとても好ましく思えていた。
 活気があり、人々の生活の営みが垣間見えるこの場所は、喧騒鳴り止まない賑やかな江戸の町の中でもお気に入りの一つだ。
 よく二階の窓の桟に腰を落ち着けて、日々変化する江戸の日常を紙面に写している。

 この店の主人はとても堅物で有名だが、芸術に深い理解を持ち綯凜の風のような自由気ままさも理解している。
 時に友として絵について語らい、時に請われて教鞭をとっていた。

 そのため、ふらっと現れてはいつの間にか消える友人に店の主人はある条件を付けて二階の一部屋を空けていた。

 今日もまた条件付きで綯凜はその部屋へと上がり込んだ。

 かさかさと風に紙の端が遊ばれる。
 濃淡のくっきりとした江戸の夏を描きながら、綯凜はふと顔を上げた。

 微かに雲の流れが早く、風の匂いが変わった。

 ほんの僅かの変化。
 それを嗅ぎ分けられる者はほとんどいない。
 綯凜はそれを自負し、自慢にしていた。的中率は天候を司る神の気紛れすら察せられるくらいだ。

 これは綯凜の幼い頃からの特技だった。

「これは一雨来るかな」
 七夕なのに、織姫と彦星は可哀想に。
 こんな時期に雨など降ったならば、きっと不安で仕事が手に着かないことだろう。

 一年に一度の逢瀬。
 たった一日だけの愛しい時間を、無事迎えられるかどうか。
 きっと、居ても立ってもいられないことだろう。

 不意に、綯凜は名を呼ばれた気がした。

「俺だったら…無理だなぁ、そんなの」

 ぽつり、と綯凜は零した。
 一瞬過ぎった面影にゆっくりと瞼が落ちる。

 愛しい人と離れ、その人の思い出にすがりながらたった一度きりの逢瀬に焦がれて過ごすなど───。

 瞼の裏の少女が笑った、気がした。

 かたり、と部屋に画板が落ちた。

 ざあざあと降り出した突然の雨に、菖蒲は濡れてしまった着物を拭い息を付いた。
「せっかくの良い天気でしたのに……残念ですわ」
 どんよりとした曇天を軒下から見上げてさらに溜息を零した。
「…どうやって帰りましょう。すぐに止みそうではありませんし、知り合いはこの辺には…」
 傘を持ってきていないことを悔やみ、足元へと視線を落とす。
 雨で濡れた路が反射し、困った顔の菖蒲が映っている。

 ちょっとした用事で非番に遠出した結果がこんなことでは…、と菖蒲は内心で肩を落とした。

 軒先から滴り落ちる水量が増していくのを聞きながら、菖蒲はふと通りに落ちている物を見つめた。

 すっかり雨水に沈み、ぐっしょりと墨の滲んだ紙。
 何かの号外だろうか、瓦版が幾枚も通りに散らばっている。

「そういえば、…今日は見ていませんわ」

 ふとそう呟いた。
 脳裏に一瞬、あの不思議な髪色が過ぎった。

 濃い深紅を想わせる紫紺、黒曜石にも似た光沢の髪。
 そして、そこから覗く異なる輝きを宿す瞳。

 彼は人の好い立ち振る舞いだが、ひどく猫のように気紛れだ。

 いつも彼は突然現れる。

 会いに行くといないのに、いつの間にかそこにいる不思議な人──。

 そんなことを考えていると不意にとても会いたくなってくる。 何故そんな面倒な人が気になるのか、菖蒲は自分でもわからなかった。

「すぐに私を置いて行ってしまうのだから。本当にもう…」
 愚痴のような独り言。
 思わず零した瞬間、頭上からかちゃんという陶器の鳴る音が聞こえた。

「蓮にでも置いてかれた?」

 そして、あっけらかんとした朗らかな声音が落ちてきた。

「え…? え!? …嘘っ」
「あれ? 違った?」
 苦笑するような声に続いて、人影が目の前へと落ちてきた。
 否、降りてきた、だ。

 軽いぱちゃんという水の跳ねる音と一緒に屋根からその青年は現れた。本当に神出鬼没である。
「と、綯凜さん!?」
「うん。式部綯凜だよ?」
「な……何故ここにっ」
「うん? この近くに隠れ家があるんだ」
 どこか惚けたように彼は笑った。

 軒下へとゆるりとした動作で入ってきた綯凜を見て、菖蒲はそこでようやく気がついた。
 綯凜の髪どころか着物の裾から水滴が絶え間なく滴り落ちている。

 着物を絞ればおそらく桶一杯にはなるだろう。案の定、彼が裾を絞った瞬間大量の水が滴った。

「…また屋根で寝てしまわれたのですか?」
 仕方なくといった様子で菖蒲は手拭いを取り出し、綯凜の髪に手を伸ばす。
 綯凜はそのままおとなしくされるままになっていた。
 どこか嬉しげにも見える表情に、菖蒲は気を良くして甲斐甲斐しく水滴を拭った。
「今回は降る前に帰路についたんだけどなぁ」
 思わず遠回りしちゃって、と言い綯凜は笑った。
 菖蒲は首を傾げる。
「何故ですの?」
「うん。会いたくなっちゃって」
 そう綯凜から返ってきた。
 まったく照れもせずに言うものだから、一瞬何をいわれたのか理解が遅れた。
「えと……それは…」
 躊躇いがちに訊けば、綯凜はそれはそれは爽やかな笑顔を浮かべた。
「ん。菖蒲にね」
 菖蒲の顔があっという間に顔を真っ赤に染まったことは言うまでもない。

 しばらく菖蒲はこの一言に大きく動揺し、思い出す度に赤面しては挙動不審になったのだった。

 とはいえ、綯凜の照れのない口説き文句(しかも無自覚)に菖蒲が振り回されているのはよくあることである。


「──よね。菖蒲?」
「え、あ…ごめんなさい。聞き漏らしてしまいましたわ」
 ぼんやりとしてしまった菖蒲は綯凜を慌てて見上げた。

 それほど身長差があるわけではないが、綯凜はわずかに目線が上にある。
 総隊長の影武者を代々務めている四番隊の隊長だが、綯凜は現在の総隊長と背格好が大変よく似ていた。

 それはつまり、菖蒲の姉である蓮とそれほど違わない体格だということだ。
 本人はあまり気にしてない、らしいが……本当のところどうなのだろう?

 困ったように頬をかいて綯凜は口を開いた。
「だから、そろそろ笹に七夕の短冊を吊さないとだよねって」
「まだ吊していなかったのですか…」
「もう吊した気になってたんだよ。あはは」
 ほけほけと笑う綯凜に菖蒲は脱力した。

 零騎隊の屯所の一角に、それは立派な笹が飾られた。毎年恒例となりつつある夏の風物詩。

 七月七日の七夕の日に、願いや目標を書いた短冊を飾るささやかな行事だ。

 菖蒲は溜息をついた。
「けれど、この雨では不安ですわ」
 うん?、と綯凜が首を傾げた。
「せっかくの七夕ですのに、これでは織姫は彦星に会えないではありませんか。可哀想ですわ」

 せっかくの一年に一度の逢瀬。
 なんの気兼ねもなく二人には過ごしてほしいと、菖蒲は思った。

 晴れていなければ天の川は渡れない。
 愛し合う二人が出会えない──。

 だが、そんな菖蒲の想いを否定するように綯凜は首を傾げた。
「そうかな?」
 まだ少し濡れている髪をかきあげる。

 ずきり、と胸が痛んだ。

 その仕草は中性的な顔立ちと相まって、色っぽくて頬が熱くなる。
 けれど、菖蒲の胸中には複雑な想いが渦巻いていた。

(綯凜さんは、恋い慕う方に会えなくてもいいというのですか…?)

 そう思うと、菖蒲の胸の奥にじりじりと何かがくすぶり広がっていった。

(さっきは…)

 知らず着物の裾を握る手に力が入る。
 くすぶった感情に煽られ、今にも何かが弾け飛んしまいそうだ。

(さっきは──)

 ──さっきは、私に会いたくなったとおっしゃったではありませんか──!!

「あれ。何怒ってるの?」
「自分の胸にお訊きになってはいかがです?」
 つんと菖蒲はそっぽを向いた。
 二人の間に沈黙が流れた。
 しばらく雨音だけを聴き、菖蒲はちらっと綯凜を振り返った。そして、ぎょっとした。

(ほ…本当にやりましたわ)

 綯凜は「うーん」と胸に手を当て、首をひねっている。
 菖蒲は呆気にとられた。
 まさか、ここまで真剣に考えるとは思わなかった…。

「も…もう、いいですわっ」
「え? あ、そう?」
 なおも首を傾げる綯凜に菖蒲は深く溜息を吐き出した。
「敏いのか鈍いのかどちらかになさってほしいですわ…」
 うん?、と綯凜は首を傾げた。

「ねえ、菖蒲」
「……なんですの」
 しゃらん、と何かが鳴った。
「え…」
 突然伸びてきた腕に菖蒲は抱き込まれた。
 次いで髪に触れる優しい指の感触に、菖蒲は知らず緊張で固まった。
 細身とはいえしっかりとした綯凜の胸板に顔を埋める体勢に、心臓が破裂するのではないかと思うほど高鳴った。
 そんな様子の菖蒲の心中も知らぬとばかりに、綯凜は用が済むやすぐに菖蒲を解放した。

「なな、何で…す……の?」
 二度目の赤面に菖蒲がうろたえ頭を振った瞬間、頭で再びしゃらんという音が聞こえた。
 少し首を傾げてみると、また涼やかな音が鳴った。
「うん、やっぱり似合う」
 綯凜は菖蒲の様子などお構いなしに満足げに微笑んだ。
「あげるから、あとで鏡で確認するといいよ。菖蒲に似合う花のびらびら」
 気が向いたから買ってみたよ。
 と、気まぐれな彼の無邪気な笑みに菖蒲はすっかり毒気が抜かれてしまった。

 年にたった一度の逢瀬。

「そんなもの、俺は知らないよ」

 低い囁きが風にさらわれる。

「雨に邪魔されたぐらいで会わないなんて、馬鹿みたいだ」


 例え誰に邪魔されようとも。

 本当に愛しているのなら、そんな約束などわからない。


「何をしてでも会いに行く。俺は──」

 ───偽善者だから。

 綯凜の独白が風に流れた。
 菖蒲は、それを聞き取ることはなかった。

 綯凜は笑う。
「ねえ、菖蒲」
「なんですの?」
 菖蒲を真っ直ぐに見つめて、曇天を知らない晴れやかな笑顔で。

「雨が降っていても、会えるんだよ?」

 菖蒲は驚いたように目を丸くし、次いで照れたように微笑み返した。


《完》


1/1
[*前] | [次#]


しおりを挟む
戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -