さくらびと
時は流れる。
移る季節の中で巡る日々。
それが彼らの想いの果てにある。
───
日差しが強くなり始めた。
もうすぐ春から夏へと季節が移る。
ようやく咲いた桜も、風にあっという間に散らされてしまった。
今はもう、残った花びらが己の順番を待つばかりのように見える。
散る桜は美しい。
いつまでも未練がましく華やいだ時にしがみついていない。
潔いその姿を、親の背を見て育った幼い二人は、両親を桜のような人だと感じていた。
「──き、ゆーきー」
舌っ足らずな呼び声が林の中に響いた。
まだ見頃の桜がちらほら林立する山中で、幼い子供が声を張り上げていた。
年の頃は六つ。
薄紅の綺麗な着物がよく似合う女の子だ。
この辺りの村の子供ではないことが、その身形からわかる。
だが、迷子というわけではない。その子供は、一直線に林の中を駆けていく。
と、唐突に足を止めた。
「ゆーきっ!」
結い上げたられた髪が反動で跳ね上がった。
日差しに煌めく美しい髪が、そのまま風に撫でられ揺れる。 不意に、振り返るや林の中の一本の桜の木へ向けて唇を尖らせた。
「またこんなところにいた。瑜稘(ユキ)ってば、母様がそろそろ行くよ、って言ったよ」
腰に手を当て怒るからね、と強い調子で言うやいなや木の陰からひょっこりと同い年くらいの子供が顔を出した。
不思議な光沢のある黒髪に、藍染めの着物を着た女の子だ。
否、綺麗な面立ちから女児によく間違えられるが、その子供は男の子だ。
その子はとことこと桜の木の陰から出て、女児のそばへと寄っていった。
傍に並ぶとすぐに察せた。
二人はまるで鏡のようだ、と。
どこが、と問われればいくつか上げられる共通点。
しかし、逆に全く似ていないような印象をも受けた。
女児は昼のように明るく、男児は夜のように静か。
これは両親の血を継いだ結果なのか、不協和音のようで重なる面差しの二人は姉弟だ。
姉は紅蓉(コウヨウ)という。
弟を瑜稘といった。
「早く行こう。母様、待ってるよ」
紅蓉がそう言い手を伸ばした。
すると、瑜稘は一つ頷いてその手を握った。
二人はいつも一緒だ。
けれど、よく離れている二人でもあった。
彼らの母と父とよく似ている、叔母や叔父はよくそう言った。
紅蓉は少し早足で手を引いた。
瑜稘が少し転びそうになるが、それでも速度を緩めない。
母が待っている。
山道脇の茶屋で、今か今かと待っているのだ。
父に会いに行くために。
父は忙しく各地を回っている。
どんなことをしているのか、それを二人はよく知らない。
でも、帰ってきた父を訪ねていろんな人が会いに来る。そして、その人達のほとんどは父に感謝していた。
だから父は悪いことはしていない。
そう幼心に思っている。
親子三人で江戸を出て来たきっかけは、もちろん母だ。
いつも気丈に振る舞っては帰って来た父に文句を言い連ねている母。
けれど、本当は寂しがっているのを幼い二人は知っている。
なにしろ、父が帰ってきて一番喜んでいるのが母だから。
文句を言って困るぐらいにわがままを言う母を父がいつも受け止めて微笑む。それが二人の好きな両親だった。
だから、二ヶ月も帰らない父にじれた母が突然「会いに行こう!」と言い出した時は二人共すぐに諸手をあげた。
山道が見えた。
もう少しで茶屋だ。思いのほか遠くに瑜稘はいたようだ。
瑜稘はおとなしい。
けれど父に似たのかその行動範囲が極端に広かった。
そのため、母と紅蓉は常に隠れ鬼をしているような気持ちになった。
なにしろ瑜稘は喋らないのだから。
山道に辿り着いた時には少し瑜稘の息が上がっていた。
体力的に難のある瑜稘は旅に不向きだ。だから父は母と二人を江戸に残したのだが、かと言ってお留守番が嫌なのは瑜稘も同じだ。
「あ、こんな所にいた二人共」
気が付けば母が山道で待っていた。
羽織に袴。凛々しい立ち姿が目を惹く母は、紅蓉と同じ髪を風に遊ばせていた。
二人の姿を見つけるや笑顔を見せる母は、三十路を過ぎたとは思えない若々しさと美しさを保っていた。
むしろ年々魅力的になっている、とおじさんは言っている。
「ほら、行くよ。早く行かないとまたどっか行っちゃう」
茶化しているのか本気なのかわからないことを言って二人は頭を撫でられた。
うん、と頷いて紅蓉は瑜稘の手を引いたまま母について歩き出した。
「瑜稘、大丈夫?」
たまに遅れがちになる弟を気遣う紅蓉に、母は嬉しそうに微笑んだ。
優しい子に育っている。
それがこれほどに幸せで。
ならば、もっと早くに彼の手を掴んでいればと後悔した。
この時が本当に愛しい、と。
けれどそれは私だけではない。
山道を抜けた先に、淡い薄紅が散るのを見た。
「母様、きれい!」
紅蓉が言った。
木立の先の開けた場所に、散らばるように林立した桜の木が見事に咲き誇っていた。
風に舞う桜吹雪が視界一杯に広がる。
「うん。綺麗……」
あ、と母は言葉を漏らした。
「──いた。」
母はそのまま歩き出す。
桜の雨の中を、真っ直ぐに。
瑜稘が紅蓉の袖を引き指さした。
紅蓉はすぐに瑜稘と一緒に母に続いた。
一番立派な枝垂れ桜。
その下に父はいた。
暗い色の羽織りに桜の花が映えて、一層鮮やかに見える。
長い黒髪が風にさらわれては背で揺れた。
もしここに他の人がいたのならば、きっとその場に縫い止められてしまうだろう。
美しい桜舞い降る中に立つ、父は誰よりも美しくあった。
儚い幻想。
まるで白昼夢を見ているようだ。
ならば。
ならば、触れれば消えてしまうのか──?
「もう。何してるの、君は」
母の声が聞こえた。
いつの間にか枝垂れ桜の近くに立っている。
父は母を振り返った。
「──桜が」
静かな微笑みを湛えて、父は口を開いた。
「桜が、あまりにも綺麗だったので」
「君の方が綺麗だと想うけど」
そんな父を母は、そう言い笑った。
その笑みに父は、おいで、と手を広げて母を受け入れる。
そうして母は、桜よりも美しく、幸せそうに笑った。
久しぶりに会った父は更に美しくなった。
けれど、やっぱり母の前でしかその美しさが幸せそうに綻ぶことがない。
だから、紅蓉と瑜稘は母と父が大好きだ。
だからほんの少しだけ。
少しだけ父に駆け寄るのを二人は待つ。
桜よりも美しい。
桜のような二人の大好きな二人。
《終》
1/1
[*前] | [次#]
しおりを挟む
戻る