紫色の花の名



 遠い昔に俺の世話役が言っていた。

【名とはとても大切なものです。貴方の存在を示すものであり、貴方の人生を左右するもの。
安易に己の名を教えることはその者に己の存在を渡すこと、存在を残すことと同じことなのですよ】

【貴方は我が君が造り出したモノ。その力は強大です。他の者に利用されないように、本当に本当に大切な者以外には名を明かしてはいけません】
 
 だから俺は人生最大の大嘘を吐く。好きな花の名を取り、己の名を茴香――と。

 本来の名を知っているのは我が主と世話役、そして…。

『紫、少しいいか?』
『何ですか?』

 それはずっと昔の話し。
 俺がまだ宮と名乗っていた頃の。

 紫を誘い和泉の屋敷で彼の楽の音に耳を傾けている。
 視界の端にはちょこりと座っている童子が見えた。

 宮は扇を取り出し隣に座る紫の耳元へ唇よせソレで隠す。内緒話をするのかと紫は興味を示した。

『私の本当の名を教えてあげよう』
『…え…?』

 今思えば何故この時言ったのか分からない。和泉の楽に乗せられた感もある。
 遙か昔に俺は大きな過ちを犯した。己の大切な者に名を教えることが出来なかった…。
 だから彼女の魂を持つ紫には前々から名を教えようと決めていた。

『本当の名は…』
『本当の名は…?』

 耳元で小さく発したその言葉に紫は『綺麗な名前ですね』と、嬉しそうに笑った。

『他の者には決して教えるなよ。あの晴明にもだ』
『分かりました』

 楽の音が耳から離れない。
 紫の笑顔が、頭から離れない。

(なあ、姫御子)
(紫の中から聞こえるか…?)
(教えると約束して叶えられなかった、俺の名前)
(本当の名前は――)

『藤紫様』
『…何だ、紫』
『名前を教えて頂いてありがとうございます。…一生忘れません』
『…ありがとう』

 お前達の笑顔が守れるならば俺はずっと刀を持とう。
 多くの神々を騙し、嘘をついても。

 本気の嘘だからこそ後悔はしない――。


「貴方の名前を教えて下さい」
 ――嗚呼、お前は…。
 「何となく…ですけど、思うんです。私は貴方の名前を知らないといけないと」

 ――紅と銀の強い瞳の……。

(………)

(姫御子。何度魂が転生しても俺は名前を教えよう)

(¨藤紫¨と…)


 ――また楽の音が、聞こえた。




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