驟雨



 降り止まないにわか雨の中、蓮は急ぐように道を急いだ。傘に大粒の雨が当たって着物が少し濡れている。

「まったくもう、こんな夜中までかかるなんて思わなかったな」

 ちょっと江戸城に顔を出しに行ったはずが、将軍が自分を何とかその場にとどめておきたかったのかいろいろと付き合わされたのだ。

 最後の最後まで江戸城に泊まるよう言われたがそれだけは断った。蓮を煩わしく思う御台所の目もあるし、あまり自分はあそこにいない方がきっといい。

「瓊毅連れてくればよかった…」

 そうすれば何かと理由をつけて早々と退出できたのに。

「……」

 久しぶりに見た”父”は少し疲れたような顔をしていた。どうしても私を傍におきたいのだろう。総隊長を引退できないかとも言われた。そしてそう、菖蒲も。
 父親が恋しくないのかといわれれば私は否定できない。周りを気にせずに「父様」と呼びたいしいっぱい孝行したい。それは菖蒲もきっとそう。…でも。

「そうしたら、もう今のままでいられなくなる…」

 江戸城は鳥籠だ。
 鳥籠の呪縛から逃れることはきっと一生叶わなくなる。そしてきっと政に巻き込まれて最終的には政略結婚が待っているだろう。

「それだけは、嫌だな…」

 瓊毅の顔が脳裏を掠める。
 離れたく、ない…。
 もっともっと彼を知りたいのにーー。


  言い知れぬ不安を覚えて頭を振る。弱気になってちゃ駄目だ。早く帰って溜まった仕事を片付けよう。
 仕事をしていれば何も考えなくてすむ。


 屯所の方へ歩を進めると、前方から傘を差した男が歩いてきた。
  傘で隠れて顔は見えないが、黒い着物を着た男は刀を右に差している。

(右差しの剣士なんて珍しい)

  右に刀を差している剣士はだいたい左利きしかいない。本来なら幼少の頃に直され、剣術道場でも左利きは忌まれているがこの男はそれすら構わずに右差しでいるのか。

  蓮の視線に気がついたのか男の口が二マリと笑んだ気がした。

「右差しがそんなに珍しいか」

  急に話しかけてきた男に驚きながら、蓮は自分の隊服を指して言葉を返した。

「同じ剣士として少し気になってね。右差しはいつから?」
「幼い頃からですな。何度も矯正されたが、やはり左の方がやりやすい。…このようにねっ!!」
「!?」

  男が突如刀を抜いて斬りかかってきた。何とか躱すことができたが、傘が飛んで避けきれなかった前髪数本がパラパラと地面に落ちる。
 抜刀の瞬間に傘を手放した男の歪んだ笑みが蓮に注がれた。

「零騎隊の隊長格とお見受けする。名を名乗れ」
「…零騎隊総隊長、紫憧 蓮。お前がここら一帯の辻斬り犯か」
「その通り!」

 そういえば屯所を出る時に瓊毅が辻斬りが多くなっていると零していた。後で零番の隊士を向かわせると言っていたが、この男のことか。

 上段からの斬撃を今度は抜刀して防ぐが右差し相手だ、やりにくくて仕方が無い。

(くっ、やりずらい)

「京で噂は聞いていたが、天下の零騎隊もやはり女が総隊長ではこんなものか」
「なんだって…。女、舐めてんじゃないわよ」

 ピクリと反応した蓮が低く発して刀を鞘に納る。抜刀の構えだ。

 鯉口を切った瞬間に、冷たいピリピリとした空気が辺りを包みこんだ。

「幸村流抜刀術 壱式・椿!」

 横一閃に刃が薙ぎ払われ男の喉元を狙うが、紙一重で刀に防がれ鍔競り合いとなった。
 先に蓮が引いて後方へ跳びす去る。着地した瞬間に水が弾け飛んだ。

 男との距離を開け、相手の顔に刀を向けた構えーー星眼の構えをとる。

「初太刀を避けられるなんて久し振りだな」

 残念そうに、それでいて楽しそうな笑みを浮かべた。

 最初は微かに、そしてゆっくりと。刀ごと身体を左右に動かして男をじっと見つめる。

(なんだ、あの動きはーー)

 雨で視界が悪い中男は蓮の姿が二重にぶれた。

「くそッ!」

 先に動かれる前に蓮の右目の眼帯を狙おうとした時既に遅く。

「弐式・雪柳」

 いつのまにか眼前で刀を袈裟に振りかざす蓮の姿があった。

「ぐあぁっ!!」
「…とんだ邪魔が入ったな」

 大量の血液を噴き出し男は無残に地に伏す。血の付いた刃を懐紙で拭き赤く染まった水溜りに放った。

「…誰か呼ばなきゃ駄目かな」

 男の死体を放置しておくわけにもいかず途方に暮れる。雨でびしょ濡れになった眼帯に触れると、遠くから提灯の灯りが見えた。

「あれ、瓊毅?」

 徐々に近づいてきた提灯の持ち主を見るとそれは見知った顔だった。
 驚く蓮に瓊毅が辻斬り男の死体を一瞥して息をつく。

「隊長。帰りが遅いと思ったら巻き込まれたのですか?」
「え、あ、うん。例の辻斬りだよ」
「そうですか。返り討ちにするあたり流石ですね」

 と、瓊毅が遠くに落ちている傘に気がついて蓮に雨がかからないように自分の傘の中に入れた。

「風邪引きますよ」

 袂から手巾をとりだして蓮の顔をできるだけ優しく拭う。されるがままの蓮は瓊毅との距離の近さに固まっている。

「…ありがとう…」

 なんとか言葉を振り絞って礼を言うが今ではもう顔が真っ赤だ。熱が出たのではと訝しむ瓊毅に全力で首を振ると「早く帰ろう!」と瓊毅を急かした。

 辻斬り男の死体は今やもう視界にすら入っていない。後で処理を誰かに頼もうかと考えながらすぐ隣を歩く瓊毅を盗み見る。
 成り行きで相合傘になったがこれもたまには良いのかもしれない。少し前の不安が雨と一緒に流れたかのように、蓮は口元に笑みを浮かべた。


 どうかこの時が、少しでも長く続きますようにーー。





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