6.
以来、まゆのリボンが夢に登場することはなくなった。リボンは波が引くようにどこかへ行ってしまった。どこにもいないのだ。
「プロデューサーさん、おはようございます」
誰が来たかは気配で気付いていた。
「おはよう、まゆ」
左手に箱、右手に袋を抱えて、まゆがそこにいた。珍しく耳にピアスをしている。ハート型のそれが小さく揺れた。可愛い……いじらしいくらい可愛い。
「今日はピアスしているんだね。まゆにとっても似合ってるよ」
まゆははにかむと、うっすらと頬を赤く染めた。
「プロデューサーさん、お時間ありますか? お渡ししたい物があるんです」
朝の休憩スペースは、意外と人気が無い。自販機の横に設置されたソファとテーブル、それに観葉植物。ガラス張りの窓からは二月の薄い青空が見えた。
まゆは隣に腰を下ろすと、もじもじしながら箱と袋を差し出した。
ふとよぎる疑問――そういえば今日は何の日だったか?
「プロデューサーさんのことだけを思ってがんばっておしゃれしてきたんです……。チョコもマフラーも手作りですから……まゆの深い愛情、感じて下さい♪ 貴女のためなら……まゆ、何だってしちゃいます♪」
ニコニコと笑うまゆに内心の冷汗を悟られるわけにはいかなかった。夢のことがあったので、今日がバレンタインデーだとすっかり忘れていたのである。道理で朝から先輩が義理チョコで有名な某チョコ菓子を大量にもらっていたわけだ。
「……今、別の人のこと考えてましたかぁ?」
まゆの目が細くなった。こうなると下手に誤魔化さない方がいいことは経験上知っていたので、正直に白状する。
「実は、女性として恥ずかしいことにバレンタインのことすっかり忘れてて……。朝から先輩がチョコもらってたなーと考えていました」
まゆは一応の納得を得たようだった。その視線に若干の呆れが混ざっているのは、気のせいではない。さっきと別の意味で視線が痛い。
「とにかくありがとうまゆ! 大事に食べるからね! ん? こっちの箱がチョコで……こっちの袋は? 開けていい?」
「どうぞ♪」
なんだか今日のまゆはテンションが高い。イベントではしゃいでいるのだろう。
がさ、と袋に手を入れる。中にあったのは真っ赤な色。柔らかくてあたたかな手触り。
「赤い糸で結ばれた私たちにはピッタリの赤いマフラーですよぉ♪」
私はほとんど無意識に自分の首に触れていた。
「手編みなんてすごいね……。敵わない女子力……」
そもそもバレンタインを忘れるような輩なんて誰にでも負けるだろうけれども。
まゆは口元に人差し指を当てた。内緒話をするように囁く。
「まゆとお揃いですよぉ♪」
それはペアルックというやつでは。なんだか着々と外堀が埋められていないかい。
「仕事で外に出ている時に二人でこのマフラーをしていたら目立つかな? 赤いし」
「まゆ……赤が好きなんですよぉ」
「そうだろうとは思ってた」
「まゆがマフラー巻いてあげますぅ」
「うわーい、ありがとう。あったかーい」
真っ赤な色が巻き付いていく。先日の夢の内容を想起するが、手編み特有のもこもこ感とぬくもりははっきりと違うもので、妙に安堵する自分がいる。
「でもこんなに色々もらっちゃって……。私、今日、本当に何も用意していないのに」
「お返しなんていりません。プロデューサーさんがいてくれれば……」
熱の籠もった視線と吐息。この距離はまずい。下から上目使いで見上げてくるまゆの瞳が潤んでいる。
「まるで本命みたいなこと、言うね……」
違う。こんなことが言いたいわけじゃない。
「本命……? それ以上ですよぉ♪」
じりじりと焦がれるような目だ。まゆが口を開くたびに赤い舌先が覗く。相変わらず自分からは指一本も触れて来ないくせに、こちらから手の届きやすい距離まで近付いてくる。
「まゆ、私が女だってわかってるでしょう?」
「性別も、立場も関係ありません……。まゆはプロデューサーさんのモノ、貴女はまゆのモノですよ、うふふ」
……言うべきか。
目を閉じ、息を整え、まゆを真っ直ぐに見つめ返す。まゆの瞳の中の自分が真面目な顔をしているのが、なんだかおかしくて笑ってしまいそう。
「……ごめん、まゆ。まゆの気持ちは受け入れられない。私はまゆのプロデューサーにしかなれないの」
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