学園 | ナノ

チェンジオーバー 上 


 九月一日。今日は全ての学生が夏休みの終焉に絶望し、反対に母親達は日がな一日子供が家にいるという苦行から解放されて涙する日だそうだ。生憎オレの家では母親が不在なことが多いからピンと来ないが、ご近所さんの話を聞くに、どうにもそういうものらしい。
 残暑の太陽は早朝でも張り切っていて、久々の制服が暑くて仕方ない。でも不意の風は確かに秋のそれだった。窓の外を見れば、庭の柿の葉がわずかに色付いている。
 他の地域は知らないけど、ここら辺ではお盆が過ぎれば秋の気配だ。南からの海風が町ひとつ越えてこっちまで吹き込むので、八十神町は基本的に年間を通して暖かい。

「今日は始業式だけだっけ……?」

 ふと心配になり学生鞄をチェックする。良かった、提出課題は忘れていない。オレは夏休みの宿題を配布時に終わらせようとするタイプである。だから今まで最終日に泣いたことなんかなかった。そういうのはルカの役割である。
 そこまで思考して、騒がしくてテンションのおかしい幼馴染の声が聞こえないことに気付き、思わず時計を見た。
 ……おかしい。あいつはこの時間にはやって来て、

「最近ちおりん自力で起きるようになってつまらないわねん」

 などと勝手なことを言って騒ぎ、家事を手伝ってくれて、それから一緒に登校するのが常だった。
 ソフトボール部のルカは朝練があるから早めに出なきゃいけないけど、一方のオレはパソコン部で、朝練も何もない。けどルカが、

「ちおりんが遅刻しないようにおばさまから言われてんの!」

 とかなんとか言うので、オレは早朝から欠伸を噛み殺して、始業までの時間を適当に図書室や教室で潰すような一学期を過ごしていた。
 そのルカが来ない。この時間だと朝練に間に合わなくなるのではと焦るが、そういえばこの夏で大体の三年は部活を引退しているはずだ。最後の大会で敗れてボロ泣きするルカの姿を思い出してしまい、苦い気分になる。ルカはオレと違って感情豊かで、だけどこちらに心配かけまいと感情を隠すこともするような奴で、だからオレは振り回される。今だってそう。
 そもそもオレは何でこんなにルカのことを考えているんだか。段々と腹が立ってきた。
 こんな時、家が隣同士で良かったと思う。距離にして数メートル。オレはルカの家のチャイムを押した。

「おはようございます、水無瀬ですけどー」

 ……。
 なんだか、今、ルカの切羽詰まった奇声が聞こえたような。
 ややあって、パタパタとスリッパの足音が響き、ガチャガチャと錠を回す音の後、カラカラとガラス戸がスライドする。

「あ、チオ姉。おはよおー。入って入ってー」

 出迎えてくれたのはルカの二番目の弟、高槻伊作だった。人の良さそうな顔に、ニコニコとした細い目が特徴の、ややぽっちゃりとした八歳児。夏休み明けの小学生らしく、その肌は健康的に日焼けしている。黒いランドセルからは上履き袋が覗き、傍らの手提げにはカラフルに着色されたペットボトルらしき工作物が入っていた。

「おはようイサク。ルカは?」

 玄関に足を踏み入れると、石畳特有のひんやりとした空気が肌を撫でた。お隣さんちは戦前に建築された農家を改築しながら使っていて、伝統的な家屋と生活感がいい感じにミックスされている。綺麗に掃き清められた土間玄関がなんとも趣き深い。
 イサクはしゃがんで靴を履きながら、のんびりと答えた。

「ルカ姉ならごはん食べてるよ?」

「え。遅くない?」

「姉貴の奴、珍しく寝坊したんだよ。夏休みの宿題が無事終わって安心したのと、朝練が無くて油断したののダブルパンチだって。ばっかでー」

 廊下の奥からルカの一番目の弟、高槻飛人が現れた。こちらはぱっちりとした目の、いかにも勝気な十一歳。やはり日焼けし、ツンツンした髪の跳ね具合やランドセルの傷み具合も相まって小憎らしさ増し増し。加えて言うなら、いつでも子供向けホビーアニメの主人公になれそうな面構えである。
 余談だがこの三兄弟の構成は上二人が母親似、末っ子だけ父親似で綺麗に分かれている。

「ルカがオレより遅く起きるなんてな」

 随分らしくないことが起きるものだと思った。


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