学園 | ナノ

焦心キャラメライゼーション 前 


「史平は、人を好きになったこと……ある?」

 暮れなずむ放課後の理科室の中、机を挟んだおれの正面で鞄に筆記用具やらをしまいながら、ナオは躊躇いがちに口を開いた。眼鏡の奥の瞳は逆光のせいで見えないが、その頬が朱く染まって見えるのは夕焼けのせいだろうか。
 なんだこの状況。
 おれの膨らませていたガムが変な音を立ててしぼみ、吸い込んで喉にへばりついた。

「がふっ、がふっ!!」

 おれは大きく咽こんだ。

「だっ、大丈夫!? 史平!?」

 オーケー、まずは状況を整理しよう。
 実験中だったので首から下げたままにしていたヘッドフォンを再装着することも忘れ、冷静にガムを咀嚼する。
 視界の端、夏を迎えたオレンジの空の片隅に、白い飛行機雲がラインを描いている。大きく開け放たれた窓から風が入り込み、おれの白衣の裾やナオのシャツの袖をゆっくりとなびかせた。
 時刻は部活の終了時刻で、おれはこの第一理科室で科学部の活動に励んでいた。「第一」っつーことは当然第二理科室もあり、理科準備室で区切られている。こっちは主に化学や物理の実験に使われ、向こうは生物や地学、天文学の授業に使われる。今は科学部の部員も、部員ではないが混ざっていた連中も、全員帰ってしまっている。だから今この教室にいるのはおれとナオの二人だけだった。つっても後片付けの都合でおれらが最後になっただけで、施錠を任されたのだって偶然だ。
 で、こいつは他の連中の足音が遠ざかった途端にあんなことを言い出した。何気ない世間話なのか、はたまた、他の連中がいなくなる機会をずっと待っていたのかもしれないが、今のところは判断がつかない。
 こいつ……ナオは科学部じゃなくて写真部なんだが、部活の無い日はおれに付き合って実験に参加したり、実験の様子や薬品の棚の写真を撮っていたりする。他の部活に遊びに行くなんて珍しくも無い、部外者大歓迎の風潮がこの学校にはあった。
 おれの喉が回復するのを待って、ナオはパタパタと慌てて手を横に振る。

「あ! もちろん史平が『爆弾が恋人』って公言して憚らないのは承知の上だよ!? 史平が爆発物に触れる時はそれこそ永らく焦がれた恋人に触れるかの様だしね」

 んなこと言われてもなあ。
 困惑するおれを余所にナオは続ける。

「でも、だから気になったんだ。そんな史平が人間を好きになったことはあるのかなって」

「うーん……?」

 言われ、おれは記憶の引き出しをひっくり返してみる。ビーカーの底にこびりついた化合物に似たおぼろげな思い出がかすかにある、気がする。
 うんうんと唸るおれの様子に、ナオは肩を落とした。

「……人は無理でも、せめて有機物でお願いしたいんだけど」

 おれは反射的に親指を立てた。

「おいおい、あまり見くびるなよアミーゴ! 今思い出したんだがよぉ、おれはこれでも小学生時代、隣の席の女子が好きだったことがあったような気がしないでもないぜ!!」

「その言い方はあまり期待できそうにないんだけど……」

 ナオのぼそぼそした呟きをあえて無視し、おれは遠い目をして回想モードに入った。

「……あれは確か小テストの時間だったな。消しゴムを使いきって悶絶していたおれに、隣の席の奴がそっと消しゴムを差し出してくれたことがあった。即座におれは思ったね! 『やっべこいつ好きだ』って!!」

 ナオは口をあんぐりと開けた。呆気にとられてやがる。

「なんだか予想外にマトモでベタなシチュエーションにびっくりした」

「おおう、なかなか失礼じゃねーのアミーゴ」

「それで、その子とはどうなったの?」

 ふむ、とおれは顎を撫でる。ガムを包み紙に包み、新しい包みを開封し、噛み、膨らませ、弾かせた。

「……いや、それだけだが?」

「え!? なんで!? もっと何かないの!?」

「つってもよぉ、クラス別になったら普通に話す機会も無くなったしな? 第一、おれは自分が好きならそれだけで良かったんだよ」

 ナオは大きくよろめき、背後の机に腰をぶつけた。

「くっ、想像以上にピュアだった……! でも小学生ならそんなものなのかな……」

 腰をさすりながら青ざめたり思案したりと、忙しい奴だ。
 するとナオは気を取り直すように咳払いをし、再びこちらに向き直った。

「じゃ、じゃあ今は好きな子とかいないの?」

「いねえよぉー? そーだなぁー、どうせすんならよぉー、喉に濃硫酸流し込まれるみてーな恋愛がしたいもんだぜ。どろっどろのでろんでろんで、情熱的だろ?」

「爛れた恋愛のにおいがするよ史平!!」


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