後編
幼いエオスの声は、あくまでもおっとりとしていた。
「あなたが何故こんなことをなすったかは知りません。でも、おじいさまも、おかあさまも、おとうさまも、みんなお怒りですわ」
微笑とともに、告げる。
「――もちろんわたくしも」
ひやり。
そのひとこと――その言葉だけで空気が変貌する。
ずしりと、重く。
「……!」
青ざめ強張った表情で歯をカチカチ鳴らす女を、エオスはにこやかに見下ろした。
「わたくし今とっても怒ってますの」
相変わらずの場違いな微笑。
冷笑でもなく嘲笑でもない、愛おしげでさえある微笑み。
「かえしてくださいな」
女ではなく、布にくるまれた荷物に向けて。
「わたくしの、大切な大切な」
毛布でくるまれた荷物、隙間からこぼれるのは――金の髪。
「弟を」
* *
時は数刻前に遡る。
晴れた冬の昼下がり。
柔らかい日差しが差し込む子供部屋。
部屋の主はエクセドラ家の子供、すなわち男爵の孫にあたる二人。五歳のエオスと、生後十ヶ月のヘリオスである。
さらに、数日もすれば三人目が誕生する。そんな身重となった母親の代わりに子守その他諸々をするため、女は雇われたのだった。
揺りかごで眠るヘリオスをそっと抱き上げ、眺める。
小さく無垢な体。まだ薄く不揃いな金髪。額にある小さな宝石に似た器官と、先端部が少し尖った耳こそ、彼が人外の者である証だった。
それでもスヤスヤした寝息は人間の赤子と変わりない。それを実感し、彼女にわずかな躊躇が生まれる。しかし深呼吸とともに迷いを吐き出し、ヘリオスを抱き直す。
女は何でも無い顔を形作りながら、屋敷の裏口へと向かった。
屋敷の裏手は森に続いている。その手間の小道、冬であろうと緑のままの木々に隠れるようにして、馬が繋いであった。
「来たか。早く乗れ」
馬の上から男が声をかける。彼女と同じようにエクセドラ家で働く、小間使いの男だった。
男は毛布を渡してきた。ヘリオスをくるめということらしい。当のヘリオスは相変わらず眠ったままである。
「これからどうなるかも知らねえで、のん気なもんだ」
誘拐。使用人たちが結託し、子供を攫い、身代金を要求する。それが彼らの計画。今頃、屋敷の住人の注意を他の使用人たちが逸らしているはずだった。
しかし番狂わせは起こる。
「あら?みなさんどちらへ行かれるのかしら?」
ひょこっと顔を出したエオスが、馬に乗った二人を不思議そうに見上げる。男は舌打ちしつつ、即座に馬を走らせ一目散に町へ向かった。
「…?」
暫しキョトンとしていたエオスだが、やおらポンと手を叩く。
「あぁ、なるほど。これ、たぶん鬼ごっこですわね」
疾走する馬の上、
「畜生!計画が狂った!あのガキから親にバレる!」
男は焦りと緊張を隠さず、吐き捨てる。
「で、でも馬の足に追いつけるわけないし、え……!?」
歌が、聞こえた。
美しい旋律が空間を振るわせる。
「この声…エオスちゃん?」
女が振り返ろうとした、その瞬間。
轟音とともに地面が隆起し、数十本の槍と化して馬の下から襲いくる。
エオスの魔法だ。女は確信する。歌声を引き金に物質を操るさまを、何度か見せてもらったことがあった。
甲高い悲鳴を上げたのは馬だった。土の槍を懸命にかわし、逸らし、それでも物量を捌ききれず二、三撃食らったのだ。
致命傷には至らない傷だが、それでも痛みに馬が嘶き、暴れ出す。その背から二人はなすすべもなく投げ出された。
浮遊感を味わう間も無く叩きつけられ、一瞬息が詰まる。しかし、思ったよりも痛くない――女は首だけを動かし見ると、しなやかな蔓に優しく受け止められていた。
蔓。この冬場には有り得ない植物。
女はパニック寸前の頭を揺すりながら、身を起こした。混乱するより、男の無事を確認するのが先だった。
見れば。
ギチギチ、ギチギチと、男の体に木の根が巻きつけているところだった。
「――カゴの鳥さん カゴの鳥
羽根をもいであげましょう――」
今度ははっきりと歌声が聞き取れた。段々と、近づいて来ている。
「ひ、ひぃぃっ!!」
女は後ずさり――未だにヘリオスを抱き締めていることに、ようやく気付いた。
今となっては誘拐どころではない。女はヘリオスを置いて逃げようとした。
だが、そこで思考がよぎる――落下地点にわざわざ蔓を生やしたり、ヘリオスを抱き締めているからこそ、エオスもこの自分に手荒なことができないのではないか――?
なら、「これ」を手放すわけにはいかない。
女はヘリオスをきつく、きつく抱き締め、走り出す。
仮に、ここでヘリオスを放置していればエオスに延々と追われることもなかったのだが――全ては後の祭りであった。
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