1-3
その晩、少年は街道から少し奥まった場所に一軒の宿屋を見付けた。日はとうに沈み、草木がうすぼんやりとした月明りに照らされ、陰影を形作っている。虫の声が響く中、宿屋の窓から仄かに漏れる灯りの中、宴の音が周囲を揺らす。
「こんな夜分にすみません。宿をお借りしたいのです」
少年は門を叩いた。
「まあ、旅の方。いらっしゃいませ、ようこそおいで下さいました。でもごめんなさい、今晩のお食事はもうお出しできないのよ。それでもよろしいかしら?」
「勿論です、こんな時間に来たのですから」
宿屋の女将は三十がらみの艶かしい女だった。落ち着いた色の仕事着は彼女の成熟した色香を損ねず、むしろその美貌をより一層引立てていた。
「ではお部屋にご案内致しますね」
玄関を通り、大広間の横の廊下を進む。宴はたけなわのようだった。酔客の声に混じり、鼾も聞こえてくる。山中の宿だがなかなか繁盛しているようである。
ふと窓の外に馬小屋が見えた。明らかに宿泊客よりも多くの馬がうなだれたように繋がれている。
「これは運が良い。こんなに宿泊客がいるなら馬小屋を借りることになるかもって思ったら、馬小屋も満室で。だけどお部屋が空いていた。これで野宿をしなくて済みます」
「まあ、お客様ったら。あの馬達は、勿論お客様達の馬もおりますけれど、この宿の馬の方が多いんですのよ。お客様にお貸しすることもありますの」
女将からは熟した果実に似た甘いにおいがして、少年はその濃厚さにくらくらした。
部屋の造りは簡素なものだった。寝台と棚、窓がひとつずつの狭い部屋である。複数人向けの部屋はまた別にあるのだろう。
寝台には布団が無い。カナン大帝国の宿屋はよほど高級でない限り、宿泊客が寝具を持ち込む形式である。
「あ、お客様。少しお待ちになって」
女将はそう言うと、台所の方へ向かった。
「さっき、お料理がもう無いって言ったでしょう? でもお夜食くらいならありましたわ」
そう差し出されたのは饅頭だった。麦の粉をこねて肉を包み、蒸したものである。
少年は礼を言って受け取ったが、別段腹も減っていなかったので翌朝に食べることにした。
少年は髪を解き、寝台で眠りについた。草木さえ眠りにつく時間帯である。宿屋の中で起きている者はいない――はずだった。
不意に雲が晴れ、月が顔を覗かせる。窓から射し込む眩しさに、少年は目を覚ました。
部屋の扉が開かれたのはそれと同時だった。いかにも荒くれ者といった風情の男が室内に入って来る。
酔客が部屋を間違えたのかとも思ったが、
(鍵、掛けたよね)
少年は枕元に手を伸ばし、いつも髪に巻いている細長い布の感触を確かめる。
月光の下、男の手の中で抜身の刃が冷たく輝いた。
[
戻る]