小説 | ナノ

下 


 覚えていること。
 白っぽい視界一面に、にんげんの集合体が蠢いていたこと。

「邪魔だッこのガキ!!」

 そいつの中から腕が伸びてきて、白堊ちゃんの軽い体とわたしが突き飛ばされたこと。
 べしゃ、と音を立てて冷たい石畳の上に突っ伏す白堊ちゃんのちいさな苦痛の声のこと。
 白堊ちゃんの表情はわたしからは見ることが出来なかったこと。
 助けを求めてもたくさんの足どもは白堊ちゃんの存在を無視したこと。
 そして、ふいに、

「大丈夫かい?」

 降りかかった優しい声のこと。
 目の前におばあさんがいたこと。
 そのおばあさんは、ぼやけて滲んだ顔で優しく笑っていたこと。
 その笑顔は、危険な感じはしないけど、どこか得体が知れなくて不気味だったこと。
 …それでも、わたしたちが頼れる人物はこの人しかいないということ。
 ベアトリクスと名乗るおばあさんはわたしたちを助け起こし、パンを与えてくれたこと。

「私はね、孤児院の先生をしているの。あなたたちも、良かったらついて来なさいな」

 と言葉をかけたこと。
 白堊ちゃんはちょっと考えて、わたしの手を引きながら、おばあさんを追って歩き始めたこと。
 その手はつめたく冷え切ってたこと。
 その顔はなにかを諦めきった、ひどく無機質なものだったこと。
 そんな白堊ちゃんにわたしは、何も言葉をかけることができなかったこと。

 * *

 孤児院の春は、雪の剥げた庭でみぞれ玉をぶつけ合う連中の笑い声で賑やかだ。
 なにがたのしいのかわからないその行動を、すみっこから眺めているのが白堊ちゃんとわたし。
 足元にあるのは雪と土のどちらともつかないカタマリ。
 いつかの夜に雪で作った作品が溶けて、混ざり合って、汚らしくなったモノ。

「みんな溶けちゃったね」

「…そうだね」

 それだけ答えて、白堊ちゃんは背中から腕を回してきた。ぎゅっと抱きしめられ、動けない。

「いずれ跡形も無く消えてしまって、そこにそれがあったということすらわからなくなるだろうね」

 腕に力がこもる。

 息がつまる。

 白堊ちゃんの淋しさに何もできないでいるわたしがいる。

 「…もう、行こ?」

 震え声のわたしは、白堊ちゃんから抜け出し、その手を引く。
 一刻も早くそこから離れたかった。
 震えが止まらない。
 雪で作られたモノ達の残骸がわたしを見上げる。
 まるで責めるかのように、どろりとした目でじっとわたしを見ていた。


[戻る]
×