小説 | ナノ

プロローグ 


 個室の中には窓が無い。そこにあるのは寝台と机。机の上には燭台と洗面ボウルと水差し、机の下には排水を捨てる用の桶。天井の通気口は黒々として、石造りの壁は冷たく、燭台の灯りだけでは闇を払い切れない。
 石畳の床の上、苦しそうに蹲る少女がいた。名をミーナという。
 ミーナはほんの数週間前まで、自分のことを普通の人間だと思っていた。
 田舎町で花屋を営む両親の愛情を受けて伸びやかに育ち、生まれてから十二年間ずっと両親の実の娘であることを疑ってもいなかった。丈の長いローブを纏った男が家を訪れるまでは。

「く、ぅ」

 呻きを上げる。

「あ、あ……」

 光が現れる。苦悶に合わせて明滅する。徐々にその背に輝きが収束し、大きな翅を形作る。それはさながら、光でできた蝶の翅。
 先程よりも血色が悪くなった顔を、とめどなく汗が落ちてゆく。
 ミーナはなんとか息を整えると、祈るように手を組み、目を閉じた。

『だれか……わたしのこえを……』

 心の中で呼びかける。誰に届くかもわからない。それでも呼びかける以外のすべが思いつかない。翅を通じ、もっと遠くへ届くように、どこかにいるだれかに繋がるように、『声』を拡げていく。
 不意に足音が聞こえ、ミーナは祈りを中断した。翅が光の粒子となって空気に溶け消えると同時に倒れ伏す。憔悴しきった耳は部屋の扉が解錠される音を聞いた。

「数値が上昇していると思えば……。また『翅』を使いましたね、プリンセス」

 ミーナは入室してきた男を見上げる気力もない。
 思い出す。男の名前がヴィレム・ヴェーメルであること。年齢は四十半ばから五十であること。手入れのされた口髭を蓄えていること。丈の長いローブを着ていること。ミーナをずっと探していたこと。ミーナをここに連れて来たこと。おそろしい計画を立てていること。

「困りますな、プリンセス。いたずらに力を使うのは。貴女の肉体はまだ力に慣れていない。さぞや消耗の激しいことでしょう。計画に支障をきたす行為はお止め下さい」

 もうひとつ。ミーナをまるで姫君の如く扱いつつも、その実は道具程度にしか思っていないこと。

「お父さんとお母さんのところへ帰して下さい」

 ミーナはそう言ったつもりだったが、口から出たのはひゅうひゅうとした吐息だけだった。

「……わたしがこのまま死んだら、あなたの目的は台無しですね」

 今度は言葉になったらしい。ヴィレムが不愉快そうに言う。

「……人間なら餓死も衰弱死もあるでしょう。しかし貴女は違う。プリンセス、いつまでも人間気分でいられては困ります。人間が死ぬような苦痛で易々と死ねると思いますな。貴女にあるのは長く引き伸ばされた死への待機時間だけだ。辛いですよ」

 男は踵を返し、扉は再び閉ざされ、無機質な施錠音が響く。
 ミーナは顔を覆ってすすり泣いた。


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