疑惑


ミロが宝瓶宮に着くと、カミュは不在だった。
宝瓶宮付きのメイドがぼんやりと、掃除をしている。ミロの姿に気がつくと、ハッと顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ。
ミロはこのメイドの事を気に入っていた。少しそそっかしいが、いつも一生懸命でそんな姿がいつも微笑ましかった。よく笑う娘で、側にいると自分もつられて微笑んでしまう。
しかし、この頃は沈んでいることが多い。
カミュが宮を空けることが多くなったからだ。
彼女は密かにカミュに思いを寄せている。
・・・いや、密かにと思っているのは本人ばかりだろう。
カミュもその事に気付いていたが、持ち前の冷静さで気付いている様子は微塵も見せなかった。
それでは彼女に対してあんまりだろうとミロは言い募ったこともあったが、彼女を傷つけたくないとカミュに言われて、ミロはそれ以上言わないことにした。
ミロも彼女の泣くところを見たくなかったから。

最近カミュの付き合いが悪い。
休みの日はいつも外出し、夜遅く帰ってくる時には至極嬉しそうな雰囲気を纏っている。
執務がある日も、仕事が終わると一旦宮へ戻った後、すぐに戻ってくるものの、毎日聖域の外へと出かけていく。
そして何より、最近カミュが明るくなった。
だから、十二宮の住民達はある仮説を立てた。
『カミュに女が出来た』

「ミロ様・・・」
「どうした?元気がないな」
彼女は円らな瞳で長身のミロを見上げた。その瞳が潤み揺れている。
「あの・・・。カミュ様の噂は本当なのでしょうか?その・・・」
ミロは困ったように溜息をついた。
カミュは何も言わない。だがどう考えても女が出来たとしか思えない行動だ。
聖域の外へ出かけるのは携帯電話をかけに行っているのだろう。
デスマスクも女と連絡を取る時はそうしている。
「あの堅物がそんな浮ついたことをする訳ないだろう?デスマスクじゃあるまいし」
安心させるように笑顔でそう言って慰めてみるが、ミロも確証がない。
メイドは泣きそうな顔をしてミロの顔を見つめている。
「でも・・・ああ、やはり・・・」
彼女は顔を覆った。その爪がきれいに磨かれている。綺麗なアーチを描いた爪先に月光のように淡い光が灯っているように見える。
ミロがじっと見蕩れていると、彼女は寂しそうに笑った。
「きれいでしょう?カミュ様がして下さったのです。」
しかしそう言う顔に、嬉しさの陰は微塵もなく、ぴっとりと憂いが貼り付いている。
あのカミュが女の爪を磨いたのか!?ミロは驚きに目を瞠った。
「爪を磨いて下さる時のカミュ様は、真剣で、優しくて、とても嬉しそうでした。でもあの方は私を見ているのではない。どなたか別の方を思っておいでなのです」
「カミュにそう言われたのか?」
「いいえ!でも・・好きな人の事はわかりますから・・・」
そう言うと、彼女は肩を震わせて泣き始めた。
彼女の涙を見たくなくて、ミロはあやすように肩をぽんぽんと叩いて慰める。
と同時に、何も言わないカミュへの謂れのない怒りが湧き上がってきた。
自分は彼女を憎からず思っている。彼女の思いを知りながら、傷つけるような真似をするとは。
いや、きっとカミュはそんなつもりはなかったのだろう。しかし結果的にこんなに彼女を苦しめている。
ミロは、一体何がカミュをそこまで夢中にさせるのか知りたくなった。


アテネ市街へ降りてくると、ミロはすぐにカミュの小宇宙を探り始めた。
それを気付かれないように慎重に追跡する。
と、花屋の前で足を止めているカミュを見つけた。
そのまま気配を消したまま、様子を窺う。カミュは花を一輪手にとって、その香りを楽しんでいた。
その表情はミロが見た事がないほど穏やかだった。まるで大切な誰かを想っているような。
いつもは絶対零度を思わせるような冷たい眼光は、春の日差しのように和らぎ、薄い唇の端が心もち持ち上がり、淡い微笑を形作っている。
あのメイドはこの笑顔を垣間見たのだろう。自分ではない誰かに思いを寄せるカミュの微笑みを。

ふと、その笑顔に緊張が走りいつものカミュの顔へ戻った。
気付かれたか!?完全に気配を絶っているはずなのに?
ミロも緊張してカミュの様子を一層注意深く窺う。
どうやらカミュは通りの向こうを見ているらしい。射竦めるような鋭い視線を送っている。
と、カミュが足早に歩き出した。ミロも迷わずカミュの跡を追うのだった。



向こうの通りを歩いているのは、サヤ・・・と、誰だあの男は?
馴れ馴れしくサヤの背中に時折手を回して、親しげに微笑みかけている。
サヤはその手から逃れるようにさり気なく身をかわしつつ、小さく笑っている。
カミュは胸の奥がちりちりと焦げるような痛みを感じて、表情を険しくした。

今日は自分と過ごすはずではなかったのか?
しかし、約束の時刻までまだ時間に余裕はある。
姉との約束は夜。まだ陽は西に傾き始めたばかり。冬の弱い日差しが、やっとオレンジ色に変わり始めたところだ。
それまで姉がどう過ごそうと、カミュが口出しできる筋合いではない。

自分とサヤは姉弟。姉の行動にそこまで干渉することなど出来ない。
自分達は恋人同士ではないのだから。
姉が男と歩いていたって、それは普通のこととして受け入れるべきなのだろう。
あんなにたおやかで、綺麗で、側にいるだけでつられて微笑んでしまうような、そんな雰囲気を纏った姉を、世間の男が放っておくはずがない。
もちろん、例え恋人同士であっても、恋人が男と並んで歩いているだけで嫉妬するなんて度量が狭いと思う。
サヤの隣りを歩く男全てが、サヤに対して恋心を抱いているわけではないのだから。
もしかしたら、ただの男友達かもしれない。仕事の同僚なのかもしれない。
そう思うのに、理性と感情のベクトルが正反対を向いていて、心が引き裂かれそうだ。

これほどあの男が気になるのは、きっと姉を心配しているからだ。
自分はこんなにも姉を慈しんでいるから。
だからこれはきっと自然な心の動きなのだ。
例え干渉することが許されなくても、この思いは罪ではない。
自分はこんなにも姉が大切だから。
花が咲き零れるような微笑みを独占したい。
濃く長い睫毛の下の、透き通ったレンガ色の瞳に映るのは、いつも自分であって欲しい。
その少し薄いけれどふっくらとした唇が紡ぐ名は、自分の名前だけでいい。

息もつまるほどの嫉妬心に苛まれながら、カミュは2人から視線を外すことが出来ない。 さり気なく偶然出会ったように声をかければいいのだと思う。
いつものようにクールに。
そして、その真意を悟られないように、その男が何者なのかさり気なく尋ねればいいのだ。
いや、しかし正確にはその男が何者か知りたいわけではないのだ。
知ったから心が静まるというわけではないのをカミュは知っていた。
何故ならば・・・。
カミュはその男の瞳に浮かぶ色を知っていた。
宝瓶宮のメイドと同じ色。
その色の名は“恋”。

カミュも自分の瞳を覗き込むことが出来たら、自分の瞳にもその色が宿っていることに気付いたかもしれない。
跡をつけてきたミロは、カミュの瞳にそれをはっきりと認めた。
身を焦がすような嫉妬に普段の冷静さがフッと陰を潜め、ミロの眼の前に、水と氷の魔術師の仮面を脱いだ素顔が無防備に晒されていた。
あいつ、本当に恋をしてるんだ。
カミュの前を行く女性は、遠目でよく見えないが、背が高く、艶やかな紅い髪をゆったりと纏めていた。
後姿だけなのに、こんな雑踏の中でも人目を引く。何というか、オーラのある女性だ。
そうか、あれがカミュの・・・。
しかし、隣りを男が歩いている。もしや、三角関係か?
宝瓶宮のメイドと、親友の事を思うとどちらを応援したらよいのかわからないまま、ミロは追跡を続けるのだった。


カミュは声をかけることも出来ないまま、サヤの部屋がある建物の前まで来ていた。
あの男を部屋に入れるのか?
カミュの心にどす黒い暗雲が立ち込める。心が軋んで悲鳴を上げる。
サヤと男は立ち止まり、二言三言、言葉を交わした。サヤはニッコリと笑って手を振ると、踵を返した。
途端に、胸の中のわだかまりを吐き出すかのようにカミュはホッと溜息をついた。
よかった。何も起こらなかった。
しかし、その刹那、男がサヤのか細い手首を捉え、自分の方へ引き寄せた。
サヤはよろけ、笑みを消し、驚いたように目を瞠り男を見上げた。サヤの肩を男が抱きとめる。
その瞬間、カミュの思考はショートし、今までの逡巡を忘れたかのように、二人の前に飛び出していた。

「サヤっ!!!!」
「カミュ!?」
サヤがパッと顔を上げる。カミュの姿を認めると、その顔が喜びに輝く。
男をすっと押し返して、カミュの方へ歩み寄った。
「誰だ、彼は?」
男は表情を強張らせて、カミュとサヤを見比べる。サヤを抱きとめていた手が所在なさげに宙を泳ぐ。
サヤはフッと笑うとその問いには答えず、カミュを抱き締めながら言った。
「まあ、カミュ。夜来るって言っていたのに」
「すまない。早く来過ぎたか?」
カミュはサヤを抱き締め返しながら、眼の前の男を気にして言う。自分とこの男を会わせたくなかったのではないかという疑念が心の中に湧き上がる。
カミュの鋭い視線に射竦められて、男が一層緊張するのがわかった。
「いいえ。早く会えて嬉しいわ。あ、そうそう。カミュに渡したいものがあるの」
サヤは、カミュから身を離し、バッグの中から新品の革のキーホルダーに付けられた鍵を取り出した。そしてカミュに握らせる。
「合鍵よ。これからは先に来て部屋で待っていてくれて構わない。疲れて部屋に帰ってきて、カミュがいたら嬉しいわ。最高の癒しよ。」
そう言って、姉は眩しそうに笑った。
冷たく固く凍りつき始めていたカミュの心が温かく氷解していく。
「サヤ・・・私もなかなか忙しいのだがな」
しかし嫉妬で振り回された心はなかなか素直になれず、憎まれ口を叩く。
「たまにでもいいの。カミュに会うためにギリシャに引っ越してきたんだから。僅かな時間でもいいからカミュと一緒にいたいの」
それを聞いた男の表情が歪んだ。形勢は一気に逆転。
サヤは唇を尖らせて、寂しそうにカミュを見上げている。
姉の関心は今や自分にだけ向けられている。
男の眼の前で、姉から決定的な言葉を引き出した事に、まるで子供の様な、残酷な勝利感に心が満たされながら、カミュは形の良い唇を微笑の形に変えた。
「わかった。早く来られる時はそうしよう。私もサヤと一緒にいたいから」

サヤは男の方を振り返ると、
「送ってくれてありがとう。ではまた」
とだけ言って、カミュの指に自分の指を絡ませるように手を握って、今度こそ踵を返した。
男は唇を噛み締め、2人の後姿を見送っていたが、やがて背を向けて歩み去っていった。

「カミュ、ありがとう。助かったわ。利用させてもらっちゃった。あの人強引で。もう少しこのままでいてね」
サヤは後ろを気にするような素振りを見せ、カミュに寄り添うようにして歩きながら囁いた。
「私を利用したのか?するとさっきのは全て嘘か?」
すっと身を引いて意地悪く言うと、サヤはギュッとカミュの手を握り締めて首を振った。
「違うわ!そんなに器用に嘘がつけたらもっと早く追い返せたのに。ダメね・・・」
「サヤは優しいから仕方がない・・・」
そっと勇気付けるように、カミュはサヤの手を握り返した。
あの男の立場にしてみたら、残酷なやり方で断ったのだが。
カミュを恋人と思わせることで引き下がらせた。しかし、カミュにはそれが小気味良く、嬉しかった。やつがサヤを抱き寄せたことも不問にしてやろう。
「嘘は言っていないわ。カミュが弟だって言わなかっただけだもの」
「それでいい。やつが、私が何者かなんて知らなくていい。それよりもまたあんな事が起きないか心配だ」
「あら、カミュが部屋で待っていてくれれば、部屋までついて来られても安心よ。だから会いに来てね」
この姉を守るためならば、任務を放り出してでも馳せ参じたい。しかし、それは自分の存在意義に関わる。
カミュは困ったように溜息をつきながら、それでも姉が愛しくて、淡い笑みをまた口元に浮かべるのだった。


あっけない幕引きだった。
あわや修羅場かと思いきや、カミュの1人勝ちだったようだ。
2人は仲良く部屋へと消えて行った。
垣間見た彼女の顔を思い浮かべる。
綺麗な横顔だった。
カミュは決して外見で人を選ぶような男ではないけれども、それでも仕方がないと思えるほどに魅力的だった。
遠目にわかるほどはっきりとした目鼻立ち。カミュを見つめる時の、華が咲き零れるような笑み。
彼女があんなに美しいのは、きっとカミュを想う心が表情に表れているからだろう。
その表情は包み込むようで、優しくて、カミュを信じきっていて。ミロはふと女神を思い起こした。
そして、彼女を見つめるカミュの顔も、ミロの心をじんわりとさせるほど、温かく穏やかで、今まで見た中で一番魅力的だった。
彼女がカミュと並ぶと、一対の絵のようだった。
紅く燃えるような艶やかな髪は、カミュと驚くほど同じ色で、涼しげな目元には春の日差しの様な微笑みが宿っていた。
近頃カミュの笑みが温かくなったのは、彼女に似てきたせいかもしれない。
想い合う恋人同士は似てくると言うから。
宝瓶宮で待つメイドの事を思うと、心がちくりと痛む。
可哀想に。彼女の恋は実らない。あんなにもカミュの心は奪われているから。
彼女の想いは結局は慕情に過ぎない。
彼女の想いの強さより、あの女性がカミュを想う気持ちの方がきっと大きくて深い。
カミュの彼女は綺麗で艶やかで、見ていると心が何だか落ち着くようで、ミロはもう一度会ってみたいと思うのだった。
いつか自分にも紹介してくれるだろうか。
名残惜しげに彼らが消えていったドアをもう一度見つめ、ミロも踵を返した。


2005.1.15   haruka


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