その腕の中でシエスタを -前編-
博物館や資料館で、古代ギリシャ語を解読するのがサヤの仕事だ。
最愛の弟がギリシャにあるという聖域へ行ってしまった後、自分もいつか追いかけてギリシャへ行こうと心に決めていた。
それで、思春期から独学で、大学では専攻として現代ギリシャ語と古代ギリシャ語を学んだ。
今日もサヤは、古い文献の整理やら、それの解読やらを行なっていたが、いつもと違って仕事に集中出来ない。
弟と再会してから、聖域の黄金聖闘士達に次々と出会って、カミュのいる世界に少し触れた。
そして、黄金聖闘士と呼ばれる人達は、あんなにも魅力的な人達ばかりだなんて知らなかった。
再会したカミュも、逞しく、美しく、我が弟ながら見惚れてしまうほどで、カミュを可愛く思うと同時に、何とも言えない愛情のようなものも感じていた。
それでも、カミュはあの人達には敵わない。
サガとカノンには…。
ああ、何故、神はあんなにも美しい人達を、それも双子をこの世に生誕させたのだろう。
カミュはいつか言っていた。
彼等は、黄金聖闘士の中でも最強なのだと。
サガとカノンの姿を交互に思い出して、サヤは胸が高鳴り、長い睫毛を伏せてときめきを無理矢理に押さえ込もうとした。
ミロもカノンと同じくギリシャ人で、彫刻のように美しかったが、カミュより幼く感じられて、まるで弟が1人増えたようだった。
カフェで出会ったシュラは少し晩生で、それでも落ち着いた雰囲気が素敵だった。
まさか、このギリシャで、心ときめく男性に次々に出会うなんて思いもよらなくて、それもカミュの同僚達だなんて。
彼等にもう一度会ってみたいという気持ちは高まる一方だ。
だから、仕事に集中出来ない。
我ながら少女のようで呆れてしまう。
色恋沙汰で仕事に身が入らないなんて。
いっそ、聖域に連れて行って欲しいとカミュに頼んでみようかしら?
あそこは、神話の時代から脈々と受け継がれている文化がある。
自分の仕事にも大きな影響を与えそうだ。
どうしようかしら…。
でも、カミュはきっと嫌がるわよね…。
そんな風に、黄金聖闘士達に想いを馳せていると、携帯にメールがほぼ同時に2件着信した。
最近携帯を買ったカミュかしら?
と思いながら携帯を見ると、シュラとカノンからのメールだった。
シュラからのメールは、アテネ市街に下りて来たから、以前のカフェでお茶でもしないか?という内容。
カノンからのメールは、非番だからデートでもしないか?という内容。
一瞬、3人でお茶でも、と思ったけれども、カノンとの「デート」という言葉に我が目を疑って、メールのその言葉から目を離せない。
カノンとミロと一緒にお茶をするのも楽しかった。
ミロとカノンの色々な顔が見られたから。
でも、カノンは、デートの時にはどんな顔を見せてくれるの…?
ああ、どうしましょう…。
本当は、3人でお茶でもするのが、どちらかを断らないで済むんでしょうけど、困ったわ…。
シュラとカノンを交互に思い浮かべて、またカノンにときめいてしまう。
シュラには悪いけど…。
カノンとデートしてみたい…。
サヤは、シュラには断りのメールをして、カノンの誘いに乗る事にした。
カノンからはすぐに返事が届いた。
待ち合わせ場所と指定の時刻を見てサヤは焦り、先ほどとは打って変わって仕事に集中し、手早く仕事を終わらせて、カノンとの待ち合わせ場所に急いだ。
カノンとの待ち合わせ場所は、地下鉄で数駅の、アテネの繁華街の駅だった。
駅のそばのモニュメントの柵にカノンは寄りかかって、アンニュイな表情で腕を組んでいた。
ああ、あの表情、本当にサガそっくりなんだから…。
サヤは、またサガの別れの挨拶を思い出して赤面した。
今日のカノンはジーンズに白いシャツという、シンプルな格好だったが、腕まくりをした肘から先の筋肉の美しさや、とてもシンプルな格好だけに長い脚が強調されていて、とても目立っていた。
あの美貌にあのスタイルで目立たないはずがない。
悪目立ちしないかしら、と思いつつも、約束の通りにサヤはカノンのそばへ歩み寄った。
サヤに気付くと、カノンは微笑んだ。
その美しい笑みに、また苦しいくらいにサヤはときめいた。
「サヤ、仕事は大丈夫なのか?」
「ええ、しっかり終わらせて来たわ」
「なら良かった。相変わらず、お前は綺麗だな。メイクも服装も。観光客とも街の人間とも違う。それにカミュと同じ美貌だ。危険だから絶対俺からはぐれるな」
「大丈夫よ。アテネに住んでからしばらく経つもの。でも、貴方みたいな素敵な人にこんな風に褒められるなんて、驚いたわ」
「ありのままを言ったまでだ。来い」
そう言うと、カノンはサヤの肩を抱き寄せて歩き始めた。
肩を抱かれた瞬間、サヤは少女のようにときめいてほんのり頬を染めた。
こんな風にやや強引とも言えるエスコートを、しかも天上の美貌を持つ逞しい男性にされた事など一度もない。
それに、カミュと同じくらい綺麗だなんて…。
カノンは知ってか知らぬか、フッと口許を綻ばせてサヤを見やると、細い路地を歩き出した。
ここ、アテネの街はとても小さく、中心街は車も通れないほどで、雑多な店屋と人でごった返している。
カノンは器用にそれをすり抜けながら、サヤに尋ねた。
「どこか行きたい所はあるか?」
「オリーブのお店とパルテノン神殿かしら…」
「分かった。ついて来い」
カノンにぐいと肩を引き寄せられて、サヤは頬を赤らめた。
人混みからサヤを守るように、カノンはサヤに歩調を合わせながら、路地を歩いて行った。
狭い飲食店街を、身体を寄せ合うようにして歩いて行く。
人の波に押されそうになっては、カノンの逞しい胸に身体が押し付けられて、シャツ越しに鍛え上げられた筋肉を感じると、どうしようもなくときめいて、胸がドキドキする。
これが、年上の男性の魅力…?
カミュも随分と逞しいと思っていたけれど、カノンは別格だわ…。
ああ、こんな通りを選ぶなんて、カノンはわざと…?
そっとカノンの顔を見上げると、カノンは視線に気付き、口許を綻ばせた。
「カノン、何故、待ち合わせをここにしたの?」
「お前ならパルテノン神殿かアゴラに行きたがると思ったからな。それに、アテネの北側よりも治安がいい。店も充実してるし、アゴラからアクロポリスに抜けるのに便利だ」
「そこまで考えていたの?驚いたわ…。でも、混んでるわね」
「シエスタ前だ。仕方がない。こんな時間を選んで悪かったな。アクロポリスなら空いてるだろう」
「そうね。オリーブも買う物は決まってるから」
「そうか。どこの店だ?」
そう問われてサヤは行きつけの店をカノンに告げた。
カノンもその店はよく知っているようで、サヤを抱き寄せたまま、土産物の通りへと足を踏み入れた。
そこは、石膏像ばかりが売られている店の立ち並ぶ土産物街だった。
ギリシャ神話の神々の像が、店の中に立ち並び、外では客引きの店主が店の前に立って客を呼び込んでいる。
博物館の仕事をしているサヤは、本物の像を見慣れているけれど、ただのレプリカと一笑に伏してしまうには、とてもよく出来た物ばかりだと常々思っていた。
ただ、客引きが苦手で、店内でじっくり見た事はないけれども…。
「サヤ、どうした?石膏像が見たいのか?」
「博物館で本物をよく見るから見なくても構わないけれども、土産物としてはよく出来てると思うわ。でも、実は一度も入った事がないの。土産物屋の気質がパリと違って少し苦手で…」
カノンは、地中海特有の、いやギリシャ特有かも知れないが、あってないようなものの値段交渉がサヤは苦手なのだと納得した。
「一人だと入りづらいだろう。カミュはこういった所は来ないだろうしな。一緒に見るか?」
カノンは案外人間達のこういった神話の時代の石膏像の模倣を気に入っていた。
ただの商売の一貫だとしても、トルコに支配された後でも、こうして神話の神々を祀るギリシャ人の気質が好きだ。
糞真面目なカミュならば、聖域のアテナ像しか興味を示しそうにないが。
サヤは驚いたようにカノンを見上げた。
カノンはフッと笑った。
「貴方、アテナの聖闘士なのに、意外…」
「アテナの聖闘士であると同時に、俺はギリシャ人だからな。ギリシャ人が己の好きな神を信仰する気質は結構好きだぜ?お前が初めてならば尚更だ。行くぞ」
「あっ、カノン!」
カノンはサヤの答えを聞かずに、サヤの肩を強引に引き寄せて店の中へと入って行った。
店主は嬉しそうに、値引きの話やらをしていたが、カノンは軽く頷いてそれをいなして、ゆっくりと店内を見て歩いた。
手のひらに乗りそうなほど小さな像から、玄関に飾れそうなほど大きな物まである。
サヤは物珍しそうに、それらの像を見回していた。
「それで?サヤ、お前の好きな神は?」
「好きな神って言われても困るわね。私はカトリックだから、信仰の対象として考えた事はないわ。そうね…アテナを除けば、お話として好きなのは、アポロンとアルテミスかしら」
「お前、ギリシャ人みたいだな。呆れるほどギリシャ人はアポロンが好きだからな。デルフィへは行ったのか?」
「ええ、まだじっくりとは見ていないけれど」
「それにしても、アルテミスか…。お前もアルテミスのような男嫌いだったら困るがな」
「えっ…?」
男嫌いだったら困る…?
それって、どういう事…?
「お前ときたら、カミュの事で頭がいっぱいで、他の男には無関心だろう?まるでアルテミスだ。その上、もし男嫌いならば、お前に想いを寄せた男はどうなるのだろうな?」
カノンはからかうように、サヤの顎をくいと持ち上げて、吐息のかかる距離で囁いた。
からかうような、それでいてどこか真剣な眼差しで見つめられて、サヤは心臓が煩いくらいに脈打つのを感じた。
「男嫌い…ではないわ…」
「ほう…」
カノンはすっと目を細めてサヤを見つめた。
男嫌いでなければ、その瞳に映す男は一体誰なのだ?
「では、カミュ一筋という訳か?男嫌いではなくとも、弟しか目に入らないと…?」
一層唇を近付けてそう問うと、サヤは頬を染めて、それでも魅入られたように見つめ合い、ほとんど泣きそうなほど困った表情を浮かべた。
カノン、何故こんな事をするの…?
ただでさえ、貴方に惹かれているのに…。
遊びでこんな事をされるのは、悲しいわ…。
「意地悪しないで…」
「何がだ?」
そんなサヤの想いなど知らずにカノンはサヤをからかい続けた。
からかう…いや、半分以上は本気で…。
耳まで真っ赤に染めて、潤んだサヤのレンガ色の瞳をカノンは見つめた。
呆れるほどカミュの事を愛している姉だという事は分かっている。
それでも、この表情はどうだ?
弟にはおそらく見せない表情だ。
その瞳に映すのは、俺か?
…それとも、サガか?
他の黄金聖闘士か…?
サガにだけは譲れない。
サガに劣ると思い知らされるのなんて、もう懲り懲りだ。
「サヤ…」
後ろ髪に手を差し込んで腰を引き寄せると、サヤの脚からかくんと力が抜けて、カノンは片腕でサヤの身体を支えた。
サヤは、強引なほどにカノンに振り回されて、すっかり魅入られてしまって身動きすら取れないでいた。
エーゲの瞳に吸い込まれるように、カノンの美しい瞳から目を逸らせない。
吐息が唇を掠める度に、唇を奪って欲しい気持ちにすらなる。
お願い、もうこれ以上は…。
サヤは睫毛を震わせて、堪えきれずにすっと切れ長の目を閉じた。
カノンは、サヤが自分の腕の中で陥落した事を感じ取ると、サヤを抱きすくめて、そのまま触れるだけのキスをした。
サヤはそのキスが思いの外優しい事に驚いた。
あ…思ったより、ずっと甘いキス…。
でも、カノンの気持ちも聞いてないのに、こんなの、ダメ…。
サヤはそう思うのに、心とは裏腹な甘い陶酔感で身体が満たされて動けない。
カノンも、想像以上のサヤの唇の心地よさに驚き、一層サヤを抱きすくめるとキスを繰り返した。
サヤとは思っていた以上に相性がいいのかも知れない。
ほんのり香るルージュも、柔らかな唇も、カノンの好みだ。
長いような短いようなキスを先に止めたのはサヤだった。
少し上がった息の下、サヤは困ったようにカノンを見つめた。
「カノン、これ以上は…。私、まだ、カミュとの時間を大切にしたいの…。それに、貴方の気持ちも確かめないでこんな事を…」
カノンは苦笑いを浮かべた。
こんな時ですら、カミュだ。
「お前は本当にアルテミスだな。殺されないだけ俺はマシか。俺はお前に惹かれている。何度か会っているうちに、お前が忘れられなくなった。それだけでは足りないか?」
「え…?」
カノンがそんな風に思っていただなんて知らなかった。
それも、憧れていたカノンに…。
いや、憧れていたのはサガかも知れない。
どちらに惹かれていたかなんて、判断出来るほど、カノンに会ってもいないし、サガに至っては一度きりだ。
サガからのキスは両頬に。
カノンからのキスは唇に。
その両方共にときめいてしまって、混乱する。
カノンの気持ちを受け入れるには、サヤはまだ彼等の事を知らな過ぎた。
「まだ…貴方の事をよく知らないから…。それじゃ、ダメ…?」
「知らないのならば、これから知っていけばいい。そのためのデートだ。俺も初めから多くを望んでいるつもりはなかったがな。カミュに妬けただけだ」
「カミュに妬かないで。私の弟よ?」
「分かってる」
カノンは、本当はサガに妬いていたのだが、それはそっと胸の内に隠した。
サヤが俺達のどちらを選ぶかは、サヤが聖域を訪れてからでいい。
ただ、今は、カノンという存在をサヤの心に植え付けたかった。
「お前が望まないのであれば、今日はここで切り上げる。どうする?このままこのカノンと一日付き合うか?」
カノンは、じっとサヤの瞳を見つめた。
サヤの瞳は少し迷うように揺れて、また魅入られたようにカノンの瞳を見つめると、こくんと頷いた。
「貴方の事、もっと知りたいから…」
「俺もお前の事が知りたい」
カノンはもう一度だけサヤにキスをすると、また華奢な肩を抱いた。
⇒Next Act.
2014.6.14 haruka
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