うららかな春の日に


非番の日は、何となく街に下りて、ただぶらぶらと歩く。
軽い読み物を読む以外には、映画を見ることくらいしか趣味のないシュラは、
それでも街を一人でうろつくのが好きだった。
季節の移り変わりを肌で感じることが出来る。
マスクをしてくしゃみをしながら目をしばたたかせている人たちが増えてくると春だ。
幸いシュラは花粉症ではないから、鼻孔を掠めるのはほのかな花々の香りだ。
薄手のシャツ越しに肌をやんわりと日差しが刺激し、しっとりと汗ばむ陽気だ。

生き物が、生き生きと息吹く季節。
大きなストライドで歩きながらシュラはここかしこに見える春の兆候を楽しんでいた。
道端に咲く、名も知らないかわいらしい白い花に一瞬目を止め、
誰にもわからないくらいわずかに口角を吊り上げて微笑む。

どうも自分はうまく笑えない。
運悪くシュラの微笑を見てしまった子供がビクッとなり、母親の手をぎゅっと握り締め怯えていた。
どう見ても、挑戦的にニヤリと笑ったようにしか見えなかったらしい。
あわててシュラは微笑をひっこめ、シュラはまたもとの仏頂面に戻った。

春になったせいか、人手が多い。
黄緑色に芽吹いている街路樹の横を通り過ぎると、オープンデッキのカフェがあった。

シュラはアテネに来ると必ずこのカフェの前を通るのだった。
それは意識しているときも、無意識のときもだった。
気がつくと足がこちらに向かってしまう。もはや癖と言ってもいいほどだ。

このカフェの雰囲気がシュラは好きだ。
コーヒーの淹れ方がうまいと思う。
外のデッキに据えられたテーブルにはキャンドルが飾られ、夕方になるとひっそりと灯される。
大通りから適度に離れ、着飾った道行く人々を遠くに眺めることが出来る。

シュラにとっては、ある淡い期待もあった。
それは数ヶ月前……。
シュラはここで艶やかな紅い髪の綺麗な女性に会った。
ここに来ればまた彼女を垣間見ることが出来るのではないだろうか。
自分は彼女と他愛もない話をしただけだけれども。
とても親しみやすく、好感の持てる女性だった。
彼女の面影が忘れられない。
長い睫毛を伏せ、薄い唇がゆっくりと微笑の形につり上がって行く様が、
まるでスローモーションのように繊細にくっきりとシュラの心に焼きついた。
魅力的な女性だった。

また会えないだろうか。
そう思うから、このカフェの方に足が向くのだろう。

我ながらバカバカしいと思いながらも、他にあてもなく、シュラは件のカフェの方へ歩いていくのだった。


デッキに据えられたテーブルを見て、シュラは息を飲んだ。
見覚えのある、艶やかな紅い髪がシニヨンに巻かれていて、いく筋か毛束が緩やかなカーブを描き、
シャープな頬の輪郭を彩っている。
長く濃い睫毛は伏せられ、手元のペーパーバックに視線が落とされている。

彼女だ。

シュラの胸がドキリと脈打つのがわかった。
緊張に思わず息を殺してしまう。
会いたかった、いや、もう一度一目見たかった女性がすぐそこにいる。

斜めに組まれた足は、すんなりと長く、もっとも長く見える角度に曲げられているのがわかる。
春らしいベージュのロングニットを羽織り、襟元には重ね着した、レースをあしらったキャミソールとカットソーがちらりと見える。

相変わらず彼女は綺麗だった。

短い時間だったけれど、言葉を交わしたことを思い出す。
低い声で鈴を震わせるような笑い方をする、柔らかな話し声の女性だった。

また話してみたい。
だが、果たして彼女は自分のことを覚えているだろうか。

シュラは逡巡した。

もし彼女と目が合わなかったら、そのまま通り過ぎよう。
もし彼女と目が合い、何らかの反応があったら声をかけてみよう。

シュラはそう決心して、彼女の方をさりげなく見ながら、カフェへ近づいていった。
彼女は本に視線を落としていて気付かない。
シュラは、この賭けに胸をドキドキさせつつ、不自然に見えないように、無表情で歩いていった。
彼女までの距離、10m。
それがだんだんと縮んでいく。
あと5m。

サヤはやおら、本を閉じてテーブルの上に置き、ハァッとため息をつきながら顔を上げた。
唐突なその行為にシュラはわずかに動揺した。
思わず、その鋭い視線でサヤのことを見つめてしまう。
シュラの視線に気付き、サヤは怪訝そうに首を傾げた。
そのレンガ色の瞳はガラスのように透き通っていた。
ああ。きっと自分のことは覚えていないだろう。
シュラはそう思い、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎて行こうとした。
と、サヤの瞳に何かを認識した色が浮かんだ。
そして、花が零れ咲くように、ゆっくりとその形のよい薄い唇が微笑の形になった。

「前に一度、お会いしたかしら?」

以前初めて会った時に自分が同じことをサヤに聞いたことを思い出しておかしくなった。

「ああ。前に会ったな。久しぶりだな、サヤ」

サヤは軽く目を見開いた。

「まあ、名前を覚えていてくれたの?嬉しいわ。えーと……あなたは、…シュラ…だったかしら?」
「そうだ。よく覚えていたな」
「珍しい名前だと思ったのよ。だから覚えていたのね」
「隣に座ってもかまわないか?」
「ええ。いいわよ」
「今日も弟と待ち合わせか?」
「ふふ。弟のことも覚えていてくれたなんて嬉しいわ。今日は私一人よ」

シュラは荷物を椅子の上に置くと、ブラックコーヒーを買いにカウンタへと行った。
並びながらサヤを盗み見る。以前となんら変わっていない。
彼女は相変わらず周囲の男の注目を集めていた。
そんな彼女と堂々と同じ席につける事に少しの優越感を感じながら、シュラは席へと戻って行った。

丸いカフェテーブルの上には、カフェオレボウルとペーパーバック、そして、 真っ赤な手帳が置かれていた。
文庫のサイズほどの真っ赤な表紙のスケジュール帳にシュラの目は奪われた。
目の前の美しい女性は一体普段どのように過ごしているのだろう。
その全てがその小さな赤い手帳に書き込まれているのだと思うと、それを垣間見たくなる。
自分でも不思議なほど気になって仕方がない。
どのような字を書くのだろう。どんな仕事をしているのだろう。

しかし、ただ一度しか会った事のない自分には関係のないことだ。

手帳の脇にはモンブランの黒いボールペンが無造作に置かれていた。
手帳はノーブランドで、筆記用具に拘るのが彼女流のスタイルなのだろう。
それがシュラの気に入った。

綺麗に伸ばされた爪には、目立たないが繊細なネイルアートが施されていた。
ピンク色の細かなラメのベースに、小さな華が咲いている。
手が込んでいるのに決して自己主張が強くなく、しっとりと手になじんでいるところが彼女らしい。
一度しか会ったことがないのに、シュラはそう思った。

「この本が気になる?」
シュラがじっと手元を見つめているので、サヤはシュラが本の事を気にしているのだと思った。
言われてあわてて、本のタイトルに目を落とす。
それはシュラが以前読んだことのある本だった。

この作者は、さりげない日常を透明感のある文体で描写する。
およそ平凡な日常とはかけ離れた生活をしているシュラにとっては未知の世界だ。
異世界の話だと思う。
目の前のこの女性は、こういう日常を送っているのだろうか。

「以前に読んだことがある。この作家が好きなのか?」
「ええ。最近読み始めたの。人間心理がとても細かに描かれていて、清涼感溢れるのに迫力があるわ。 好きよ。あ、ストーリーは言わないで」
悪戯っぽく低い声で笑うサヤにつられて、シュラも頬を緩めて微笑んだ。

「あなた、笑顔が素敵ね。もっと笑えばいいのに」
「そうか?そんなことを言われたのは初めてだが」

怖いと言われることはあっても、褒められることはあまりない。
悪い気はしなかった。
憧れていた女性に褒められたのだから。
何故だか彼女といると、自然に微笑むことが出来る。
不思議な人だと思う。

会話はサヤのさり気ないリードで進んでいった。
内容は映画やその作家の本で、カップの中のコーヒーを何度かおかわりするまで続いた。


「あら、もうこんな時間だわ。楽しい時ってあっという間なのね」
残念そうにサヤは呟いた。
楽しかったのは自分だけではなかった事を知り、シュラの心が幸せで満たされる。
今日は有意義な一日だった。

「こうして偶然再会できたのも何かの縁だから、携帯の番号とアドレスを交換しましょう」

シュラの非番のときはこのカフェの前を通るのが常だったから、あながち偶然というわけでもなかったが、 それでもまた彼女に偶然会える保障はない。
それは魅力的な申し出だった。
しかし、シュラは携帯電話を持っていなかった。
デスマスクやミロやカミュは女と連絡を取るために持っているようだったが、シュラは自分には必要ないと思っていた。
街に一人ふらっと降りてくるとき以外は、後輩の指導や任務、日々の鍛錬で聖域を出ることがなかったからだ。

「悪いが携帯電話は持っていないんだ。まあ、近々買ってもいいとは思っていたが」

買うつもりなど今までなかったのに、思わずシュラは言ってしまった。
サヤと連絡を取るためなら、携帯を買うのも悪くないとシュラは思った。

「そう。じゃあ、買ったら連絡して」
サヤはスケジュール帳を一枚破ると、そこに電話番号とメールアドレスをさらさらと書いた。
大人びているけれど、どこかかわいらしい、綺麗な文字だった。
ちらりと垣間見えた手帳の字も同じようで、几帳面な性格が伺えた。
外見だけでなく内面も綺麗な人なのだろう。
サヤの好感度がまた一段上がった。
どんどん彼女に惹かれていく自分を意識し、ガラにもないことだと、シュラは内心自嘲気味に笑った。


帰りに買った携帯電話の入った紙袋を提げてシュラは考える。
これを見られたら、女でも出来たのだろうと友人に冷やかされるだろう。
それを思うと憂鬱だったが、でも相手がサヤならそれも構わないと思うのだった。
ただの茶飲み友達でも。
あの綺麗な女性と再び共に過ごすことが出来るなら。


2005.4.4   haruka


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