06. 哀しみの予兆
サガとキスを交わすようになってどれだけの時が流れたんだろう。
指折り数えて、3ヶ月。
年下の黄金聖闘士の面倒を見なければ、と、毎日会える訳ではなかったけれど、私はとても幸せだった。
それでも不安になる時がある。
最近サガは少し元気がない。
ぼんやりと遠くを見つめる時に、その瞳が悲しそうに揺れていたり、優しく微笑んでいてもそのままその身体が陽炎のように消えてしまいそうな気がしたりして、その度に私はサガに抱き付いてその胸に顔を埋めてしまう。
サガの鼓動を感じて私はようやく安心するのだった。
その日、サガは私の小屋を訪れ、最近見せるようになった、切なくなるほど淋しげな淡い笑みを浮かべた。
私は悲しくなって、サガに抱き付いた。
「由良、どうした?」
サガは優しく私の後頭部を撫でた。
「最近、サガが消えてしまうような感じがするの。どこか遠くへ…。変だよね。ごめんね、急にこんな事を言い出して。サガがいなくなるはずなんてないのにね。だって、次期教皇だもの」
そう言うと、サガはびくりと身体を震わせて固まった後、また私の髪を撫でながら言った。
「私は由良のそばにいる、大丈夫だ。果たして教皇になったらこうして会えるか分からないが…。しばらくは降臨なさったアテナをお育てしなければならないからな。そう考えると厄介なものだな」
サガは自嘲気味にフッと笑った。
私は弾けたようにサガを見上げた。
「私、サガの足枷になってる…?」
「そんな事はない。ただ、由良を寂しがらせるのが嫌なだけだ」
「大丈夫だよ。孤独には慣れてるから…。サガがいつかまた会いに来てくれるのを待てるよ?教皇はアテナをお守りするものだって、分かってるから」
「孤独に慣れてるだなんて、そんな悲しい事を言うな。私は由良の孤独を埋めたいと出会った時から願っていた。今では、私の方こそ由良に癒されているがな。さあ、出かけようか。あの泉へ出かけるのはどうだ?」
「うん、楽しみ!」
あそこは、私とサガの想いが実った場所。
私達にとって、とてもとても大切な場所。
あそこで交わした初めての幸せなキスはきっと一生忘れられないと思う。
野いちごの香りのキスを…。
私達は、甘い思い出に浸るように時折泉の畔でデートしていた。
今日も、心穏やかな優しいひと時をサガと過ごせる。
その幸せに私は胸がいっぱいになって、サガを見上げて微笑んだ。
すると、サガもつられたように、優しく嬉しそうに微笑んだ。
ようやくサガの本当の笑顔が見られて私はホッとすると同時にとても嬉しくなった。
サガの微笑みは、この世で一番美しいと思うから。
サガはそっと私を引き寄せると、触れるだけのキスを何度か繰り返して顔を離した。
少し物足りなくてサガを見つめると、サガは苦笑いをした。
「そんな顔をするな。出かけられなくなる。続きはあの泉で、な?」
「うん」
サガの触れるだけのキスも好きだけど、お互い求め合うような甘いキスもたまらなく好きだ。
そんなキスの後は魅入られたように見つめ合い、また熱に浮かされたようにキスを繰り返す。
まるで、悠久の時の中、2人きりでずっとこうして求め合っているんじゃないかというような感覚にすら陥る。
サガとそんな時を過ごすのは、こんな粗末な小屋じゃなくて、あの泉の畔がいい。
私は仕度をして、サガと共に出かけた。
泉へ着くと、2人でサンダルを脱いで、足を水に浸して、私はまたパシャパシャと水を跳ねあげて遊び始めた。
すると、サガが忍び笑いをする。
「また泉に落ちるぞ」
「あれから一度も落ちてないし、落ちてもサガが助けてくれるでしょう?」
「それはそうだが…」
「だから大丈夫」
「本当に嬉しそうな顔をして、お前は可愛い奴だな」
サガが私の肩を抱き寄せると、私達は触れるだけのキスを何度か交わして、そして見つめ合った。
甘いような熱を帯びたようなこの瞬間、愛しさが心の奥から溢れ出す。
こんな気持ちを教えてくれたのはサガだった。
魅入られたようにサガを見つめていると、今度はしっかりと唇が重ねられた。
お互いを求め合うようなキスは、初めは2人ともぎこちなかったけれど、段々とパズルのピースが合うように、心地よくてたまらないキスへとなっていった。
頭がじんと痺れるようなその心地よさに全てを委ねて、何もかも忘れてしまいたくなる。
サガの腕に力がこもり、私もサガに抱き付いて、長い長いキスを終えた時はお互いに息が上がっていた。
サガはフッと笑うと、私の頬に一つキスを落として私の肩を抱き直した。
私はサガに寄りかかり、ただ無言で幸せを噛み締めていた。
そのまま、甘い雰囲気の中、微風が泉の水面にさざ波を立てる。
甘い沈黙を先に破ったのはサガだった。
「お前とキスをしていると、何もかも忘れてしまいたくなるな。聖域の様々なしがらみを…」
サガも同じ事を思っていたと知って、とても嬉しくなって、私は頷いた。
「お前もそうか…」
「独りじゃないって本当に思えるの。サガは…その、教皇の事?」
サガは迷うような困ったような視線で私を見つめた。
「教皇の事も気がかりなのは確かだ」
「他にもあるの?」
サガは心を決めたように、私を真っ直ぐに見つめた。
「由良、教皇選はもう間もなくだ。その前に伝えておきたい事がある」
何の事だろう…。
サガは、どこか淋しそうな表情をしていた。
「私はいつの日か、お前を花嫁に迎えたい。アテナからお許しが出ればな。教皇としてか、黄金聖闘士としてか、それは分からない。でも、アテナがお許しにならなかったら、私はお前を手放さなければならない」
私は、プロポーズと共に別れの言葉まで告げられてしまって、嬉しさもさることながら、不安の方が大きくなってしまった。
「やっぱり黄金聖闘士は結婚出来ないの…?」
「それはまだ分からない。しかし、不安なんだ…」
サガの不安が伝染して、私はサガに抱き付いた。
「サガとお別れは嫌っ!まだ先の話でしょう?私、まだサガと一緒にいてもいいんだよね?」
「私もお前を離したくない。ずっとそばにいたい。だから、悩んでいる。私だってこんな事はしたくないが、深入りする前に、すぐにでもお前を手放すべきなのかどうか…。取り返しのつかない事になる予感がしてたまらないんだ。お前を手放すなど、私も辛くてたまらないというのに」
「嫌っ…すぐにだなんて、それは嫌っ!」
まさか、こんなに好きになってしまってからすぐに別れ話をされるなんて思わなかった。
サガがここの所悲しそうだったのはそのせいなの…?
「サガ、もう後戻り出来ないくらいサガの事が好きだよ…。サガがいなくなるなんて、悲しくて悲しくて…。待っててって言ってくれるのならいつまでも待つのに、お別れだなんて酷いよ…」
そう言っているうちに涙が溢れて来て、私はサガに抱き付いて声を殺して泣いた。
サガも辛いのか、震える腕で私をキツく抱き締めた。
「ねえ、サガ、アテナって愛と平和の女神様なんでしょう?なのに認めてくれないの?そんなの愛の女神様じゃないよ…。私のお母さんの事も救ってくれなかった…」
泣きじゃくりながらそう言うと、サガは身体を強張らせて、溜息を吐いた。
「お前までカノンのような事を言うか。でも、私はお前を咎められない。お前は聖闘士ではないからな」
「カノン…?」
私が涙で濡れた顔を上げると、サガは口許を押さえて、しまった、というような顔をしていた。
しばらくサガはまた迷うように沈黙していたけれど、やがて溜息を吐いて話し始めた。
「お前にだけは話そう。口外無用だ。カノンは私の弟だ。一卵性双生児のな。カノンは、このサガの身に何かがあった時に、私の代わりにジェミニの黄金聖闘士となるべくして育てられた孤独な日陰の身だ。私の身に何かがあった時には、由良、お前の事もカノンに頼むつもりだ」
「サガの身に何かがだなんて、そんな…」
「まずないだろうな、いや、或いは…」
サガは顔を顰めた。
その表情に、何か嫌な予感がした。
とても漠然とした予感だけれど、サガのここの所の憔悴した様子と関係があるような気がした。
「サガ、どうしたの?」
「いや、何でもない」
「そう?そうは見えないけど…」
「大丈夫だ」
サガは優しく微笑み、私の頭をそっと撫でた。
出会ったばかりの時のような笑みに、私はようやく安堵してサガに尋ねた。
「カノンはずっと、これからも隠された存在なの?」
「私が教皇になれば、カノンはジェミニの黄金聖闘士になるだろうな。双子座を空位にする訳には行かない」
「そう、じゃあ、カノンは大丈夫ね!サガは必ず教皇になれるから!絶対大丈夫!」
私と同じ、孤独な日陰の身だなんてそれはあまりに可哀想で、私はサガが教皇になったらカノンは救われると聞いて安心した。
「絶対、大丈夫、か…」
サガは透き通るような無表情の瞳でそう呟いた。
「アテナもきっと、私達の事を認めてくれるよ」
「そう、だな…」
サガは見ていて悲しくなるくらい綺麗な淡い笑みを口許に浮かべると、またそっと私にキスをした。
「お前の言う通りかも知れないな。全部このサガの杞憂で、何事もないかも知れない」
「サガが教皇になれるよう祈ってる。アテナがお許しになる事も」
「ああ。っ!?…由良っ、私を救ってくれっ…!」
先ほどまでは普通に話していたサガが急に絞り出すような声でそう言って私は驚いた。
垣間見たサガは、眉間に皺を寄せて何かを堪えている様子だった。
救ってくれ、とはどういう意味か分からなかったけれど、その後すぐにサガにキツく抱き締められ、キスを何度も求められて聞く事が出来なかった。
息もつかせぬほどの、それも舌を絡ませるような深いキスなんて初めてで、私は戸惑った。
「サ…ガ…」
キスの合間に何とか言葉を紡ぐと、サガはハッとしたように唇を離して、頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せて拳を額に当てて俯いた。
その様子が苦しそうで、私は慌てた。
「サガ、大丈夫!?」
「あ、ああ。ただの頭痛だ、問題ない」
「随分辛そうだよ…。帰る?」
「そう、だな…。由良、愛してる」
「ん?私もサガを愛してるよ」
唐突な愛の言葉に少し違和感を覚えたけれど、サガの表情は少し怖いくらいに真剣だった。
「由良、お前の愛で、私を救ってくれ…」
今度は触れるだけの優しいキスをサガは繰り返した。
まるで壊れ物を扱うように、大切に大切にするような…。
その日、サガは私にほとんどの秘密を明かして助けを求めていた。
なのに、私はそれに気付かずサガを追い詰めてしまっていた。
自分自身の幼さと思い込みから…。
絶対に教皇になれる。
この言葉がどんなにサガを追い詰めていたか、私はあの時思いもしなかった…。
壊れるほどに繊細で優しいサガを追い詰めてしまっていた。
今でも後悔してる。
何故、あのエーゲの瞳に映る悲しみの理由を聞かなかったのか。
私と別れようとした理由は、本当は一体何だったのか聞かなかったのか。
何故、人が変わったようなキスの後で苦しみ出した訳を聞かなかったのか。
予兆はそこにあったのに、私は気付く事が出来なかった…。
2014.8.14 haruka
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