09. 離別
カノンと共に過ごした1週間ほど後、私とアイオロスは教皇の間に呼ばれた。
先日アテナが降臨したため、次期教皇の選出が行われるからだ。
アテナの名代として聖域を統べる教皇は、仁、義、勇を兼ね備えた黄金聖闘士から選出される。
他の黄金聖闘士達はまだ幼いため、教皇として選ばれるのは、アイオロスと私のどちらかだ。
私とアイオロスは、教皇の前に控えた。
その時、私は傲慢にも当然私が教皇に選ばれるものだと信じて疑わなかった。
模範的な聖闘士としての振る舞いを常に心がけていた。
弟、カノンがジェミニの黄金聖闘士として陽の目を見るためにも、と己を律して来た。
カノンもやっと日陰の存在から解放される。
そう思っていたのに、教皇として選ばれたのはアイオロスだった。
私は失意と疑問の嵐の中、それでもアイオロスを支えて行くと教皇の前で誓った。
そうするしかなかった…。
何故、私が選ばれなかったんだ…。
何故…。
これでは、カノンは…。
疑問が胸で渦巻く中、またあの声が私をそそのかしているような気がして、私はまた恐怖した。
カノンは、がっかりするだろうな…。
荒れに荒れ狂うかも知れない。
いつか風の噂にこの事を知るくらいならば、私が直接伝えるべきだ。
私は足取りも重く、カノンの小屋へと向かった。
カノンの小屋へ入ると、カノンは喜びと不安がない交ぜになった表情で私を見つめた。
「兄さん!教皇は…?やっぱり兄さんに?」
私は深い溜息を吐いた。
「カノン、すまない。教皇はアイオロスに決まった」
「何…で…?」
カノンは目を見開き絶句した。
「教皇が決めた事だ。アイオロスも教皇に相応しいのは確かだ」
脳内で、違う、違うという言葉が木霊する。
私は無理矢理その言葉を抑え込んだ。
カノンは私の言葉に激昂した。
「兄さんほど清廉潔白な聖闘士なんていないだろっ!!アイオロスなんかより、兄さんの実力の方がずっと上だ!!なのに、何でアイオロスが!!兄さんの実力なら、聖域の聖闘士を統括する事ぐらい造作もないのに!!」
「すまない、カノン。お前をジェミニの黄金聖闘士にしてやれなかった…」
「くっ…それも確かに悔しいが、兄さんを次期教皇にしなかった、あの老いぼれが俺は許せないっ!!」
「老いぼれとは何だ、カノン。仮にも教皇だぞ?」
「前聖戦の生き残りなだけの老いぼれを老いぼれと呼んで何が悪い!!」
「カノン、落ち着け」
カノンは怒りのあまり、肩で息をしていた。
そして、やがてカノンの瞳に悪魔のような濁った色が広がり始めた。
「俺はアテナが憎い!俺達双子を引き裂く運命を課したアテナが心底憎い!!」
「カノンっ!!仮にもアテナを守る聖闘士として言ってはならん事を!!」
「聖闘士も何も関係ないっ!!」
私もカノンと私の運命を嘆いた事はあった。
しかし、アテナが憎いなどと思った事は一度もない。
カノンは仄暗い目で私を見つめて嗤った。
「なぁ、兄さん。2人でアテナを殺そう」
その瞬間、私は聖衣を纏ったままカノンを張り倒した。
「カノン、もう一度言ってみろ!いかに弟といえども聞き捨てならんぞ!ア…アテナを…先頃この聖域に降臨なされたアテナを殺せだと…?」
カノンは切れてしまった唇の端の血を拭いながら言葉を続けた。
「そうだ、サガ…。アテナだけじゃない。次期教皇にアイオロスなどを選んだマヌケな教皇も共に殺してしまえと言ってるんだ。幸い俺達が双子だとは誰も知らん。そうすれば、地上は俺達のものだ」
私はカノンのあまりの言葉に言葉を失った。
カノンは自分の欲望に忠実な弟だったが、それはやんちゃの延長のようなもので、今までこんな事を口にした事がなかった。
カノンの瞳を見つめると、悔しさと怒りに燃えていた。
「し…正気か、カノン。オレ達はアテナを守るべき聖闘士。お前もこのサガに何かあった時はジェミニの聖闘士として戦わねばならんのだぞ!!」
私の身に何かあった時、と聞いてカノンはびくりと身体を震わせて悲し気な表情を浮かべた。
しかし、次の瞬間、カノンは嘲るような表情を浮かべた。
「フッ、兄さん。いい加減で正直になったらどうだ?」
「何!?」
「確かに幼い頃から兄さんは、心優しき神のような男として育って来た。ひきかえ、俺は、悪事をばかり好んで来た。同じ双子とはいえまるで天使と悪魔ほどの違いがある」
こんな言い方をするカノンは苛立ちと怒りをぶつけている時だから慣れている。
荒れ狂うカノンをどう宥めるか…。
私が思案をしていた時の事だった。
カノンはまた私を嘲笑した。
「だが俺は知っているのだぞ。兄さんの心にも俺と同じ悪が眠っている事をな…」
「な…」
そうして、まざまざと今まで見て来た悪夢が脳裏を駆け巡って行った。
あれはただの悪夢ではなかったのか?
あれは、私の願望だったのか?
カノンがただの白昼夢と言っていたのは嘘だったのか?
つい先日まで、私を気遣い、優しく楽し気に笑うカノンはどこへ行ってしまったというのだ!?
こんな事、私は望んではいない!!
私は悪夢という、私の逆鱗に触れたカノンに対して急激に怒りが膨らんだ。
アテナの殺害だけでも許しがたいというのに、このサガのトラウマをも嘲ったカノンが許せなくなった。
私はあんな願望なんて持ち合わせていないっ!
今のカノンは、完全に悪魔の顔をしていた。
「だ、黙れ!もはや、お前のような悪魔をこのまま放っておく訳にはいかん!この兄自らスニオン岬の岩牢に幽閉してくれるっ!!」
今思えば、ただの売り言葉に買い言葉の喧嘩だった。
そもそも、拳でカノンを黙らせようとしたのが間違いだったのかも知れない。
アテナへの憎しみは、日陰の身だからこそ募らせたのだと何故分かってやれなかったのか。
聖闘士として模範的であろうとし過ぎて、私はカノンの事を思いやってやれなかった…。
カノンはあんなにも私の事を心配し、私の中の悪の心を封じ込め続けてくれていたというのに…。
私は、不器用ながら心優しい、たった1人の双子の兄弟を手放してしまった。
カノンは私が狂わないよう、歯止めをずっとかけてくれていたにも関わらず…。
私は愚かで無知だった。
どれだけカノンが兄思いの弟だったか、全く理解していなかった…。
そして、カノンという支えを失った私は狂って行く運命にあるという事を、その頃の私は知る由もなかった。
俺はサガに引きずられるようにして、聖域からほど近い、スニオン岬の岩牢へと閉じ込められた。
今までサガと喧嘩をしても、しばらく経てば笑い合える関係に戻っていたのに、こんなにも怒りを露わにしているサガを俺は初めて見た。
スニオン岬の岩牢は、人間の身では決して破る事の出来ない岩牢だ。
例えサガや俺の力を持ってしても破る事は出来ない。
神の力を借りない事には絶対に外には出られない岩牢だ。
まさか、サガがこんなにも怒るとは…そして、いつも優しかったサガが、双子の弟の俺を殺そうとするとは思ってもみなかった。
俺はサガに裏切られた気持ちでいっぱいで、サガへの憎しみを募らせて叫んだ。
サガの裏側の顔を思い浮かべながら。
「おのれ、サガ!!お前のような男こそ偽善者と言うのだぞ!いつまでも悪の心を隠し通せると思うなっ!!サガよ、俺はいつもお前の耳元に囁いてやるぞ!!悪への誘惑を!」
そう叫んだ瞬間、サガが一瞬びくりと身体を震わせた。
しかし踵を返したサガはそのまま歩み去って行った。
その背中に向かってまた俺は叫んだ。
「サガよ!お前の正体こそ悪なのだーっ!!」
違う。違う。
こんなのただの八つ当たりだ。
サガともっと一緒にいたかった。
サガなら、俺の心の痛みを分かってくれると思っていた。
なのに、怒りのあまり、俺はサガの逆鱗に触れるような憎まれ口を叩く事しか出来なかった。
清い心のサガの心に眠る悪を知った身としては、サガは偽善者にしか見えなかった。
アテナが憎い。
教皇が憎い。
俺達双子を離れ離れにした運命が憎い。
サガの心を壊した運命が憎い。
俺は何としてでもサガのそばにいるべきだった。
アテナへの憎しみを募らせて殺害を企むのではなく、傷付いたサガを支えなければならなかった。
全部、俺の幼い我儘のせいで、サガを追い詰めてしまった。
俺を幽閉したサガに言ってはならない事を言ってしまった。
ただのいつもの喧嘩と同じような憎まれ口と同じだったのに、それがサガの理性に致命的な傷を…それも、サガ自身でもどうにもならない二重人格の具現のきっかけとなる言葉を投げ付けてしまった。
サガが悩んでいた悪の心の事だけは、俺の胸の内にしまっておかなければならなかった。
サガには絶対に知られてはならなかった。
なのに、俺はその事を口にしてサガをなじってしまった…。
俺だけがサガの味方でストッパーだったのに…。
俺は憤りのあまり、サガを全然気遣ってやれなかった。
一番傷付いていたのは、壊れるほど繊細なサガだったというのに…。
サガを壊してしまったのは、紛れもないこの俺だった。
俺は、サガを守ってやれなかった…。
それに気付いたのはずっと後の事だった。
その頃、幼かった俺は、俺を殺そうとしたサガに憎しみを募らせる事しか出来ず、世界征服の野望へと突き進んで行くのだった。
私はカノンを幽閉した後、ずっとあの声に悩まされていた。
それは最後に聞いた、カノンの声によく似ていた。
アテナ共々教皇を葬れ、と。
私は心の内で黙れと何度も言いながらも、私達双子の運命を狂わせた教皇選抜に対する疑念に苛まれていた。
私が教皇になっていれば、私はカノンと離れ離れに、それもカノンが死んでしまうかも知れない状況に追いやる事はなかった。
出来れば、教皇に考え直して頂いて、カノンを救ってやりたい。
アテナへの冒涜がきっかけだったとしても、あれは少々やり過ぎた。
アテナはまだ赤子とはいえ、その小宇宙でカノンを救って下さるかも知れない。
私は頭の中での悪魔の囁きに苛まれながらも、教皇にしか入る事の許されていない、断崖絶壁の星見の塔、スターヒルへと向かった。
あそこでならば、教皇と2人きりで話が出来る。
私は教皇以外は不可能と言われているその自然の要塞に軽々と忍び込んだ。
果たして教皇は1人で星見をしていて、何やら占っている様子だった。
私が現れると教皇は驚き動揺した。
私は平服し、何故私が教皇に選ばれなかったのかを尋ねた。
すると、カノンと同じ返答が返って来た。
私の心に悪の心が潜んでいると…。
やはり、あの夢はただの夢ではなかった。
由良といた時に襲いかけてしまったのも、白昼夢ではなかった。
それでは、やはりあれは私の抑圧された願望、つまり悪の塊の心の仕業だったのか…。
そう思い至った時、私の身体に異変が起きた。
また私の意識は外に追いやられ、今までに見た事のない、血走った目をした黒髪の私が教皇を罵り、そのまま教皇を殺害してしまった。
あまつさえ、教皇の衣装を来て、そのまま教皇になりすまそうとした。
私はそれを全力で阻止して、何とか自分を取り戻した。
脳内ではあの声が、アテナを殺害せよと何度も繰り返していたが、私は持てる精神力全てをかけて、それを抑え込んだ。
こうなった以上、私はもう由良と共に過ごせない。
別れを告げるなら、理性を何とか保てる今しかなかった。
私はスターヒルを降りると、由良の小屋へ向かった。
由良の小屋はまだ明かりが灯っていた。
「由良、私だ。サガだ」
外から声をかけると、夜着に着替えた由良が私を出迎えた。
「サガ、こんな夜更けにどうしたの?」
由良の優しい声を聞くと、想いが溢れ出して、もう二度と会えない悲しさに胸が酷く痛んだ。
私は本当に由良を愛している。
ずっとずっと、永遠とも言える長い時を由良と共に過ごしたかった。
目頭がじんとして、私は由良をキツく抱き締めた。
「サガ…?」
由良は怪訝そうな声で私の名を呼んだ。
私は意を決して由良に別れを告げる事にした。
「由良、すまない。私はこの聖域にいられなくなった」
「え…?嘘…」
「嘘ではない。だから、お前に別れを告げに来た」
「そんな…!!」
みるみるうちに、由良の目に涙が盛り上がり、私の胸を濡らして行った。
「いつ帰ってくるの?」
「それも分からない」
「いつかは帰って来るの?」
「それも言えない」
私は由良の問いに答える事が出来なかった。
私はこれから偽りの教皇として過ごして行かなければならないのだから。
由良は首を横に振って嫌だと言いながら泣いた。
そして、決して私を行かせないというようにキツく抱き締めた。
「分かっているのなら待てるのに、そんなの酷いよ…。私も連れて行って?」
「それも出来ない」
「そんな…」
その時、ふと教皇の瞑想を思い出した。
私は幻影を作り出す事が出来る。
教皇の瞑想は数ヶ月にも及ぶ事がある。
その時に聖域の外で由良と会う事が出来れば…。
いや、いっそ、由良をアテネ市街に住ませて、人目を忍んで合いに行く事も出来るかも知れない。
「由良、今は何もしてやれない。私は聖域から離れる。でも、必ず迎えに来る。その時は一緒に聖域を出よう。準備に手間取るかも知れないが、それまで待っていてくれるか?」
「本当?」
「ああ。私もまだ由良を離したくない」
ようやく由良は笑顔を見せた。
「私、待ってる。サガが迎えに来るのを」
「ああ。また一緒に優しい時間を過ごそう」
「うん」
私達は抱き合い、誓うように何度もキスをした。
「では、迎えに来るまで待っていてくれ。必ずここに戻ってくる」
「うん」
私は名残惜しかったが、由良に背を向け走り出した。
その頃は、私の意識は完全に悪の心に支配されていた。
誰か黄金聖闘士に私を殺して欲しいと嘆願する事も叶わなかった。
悪の私はスターヒルへとまた登り、教皇の衣装を身に着けた。
何とか止めようと必死に小宇宙を高めても、黒髪の私を苦しめるだけで、元の私に戻れない。
そして、アテナ神殿へと向かうと、黒髪の私は黄金の短剣でアテナを殺害しようとした。
それをアイオロスに止められ、仮面が外れた私はアイオロスに正体を知られてしまった。
そのままアイオロスに殺されてしまえばどんなに楽だっただろう。
しかし、黒髪の私はアイオロスがアテナを殺害しようとした逆賊だと追手を派遣した。
アイオロスは聖衣が入った箱、パンドラボックスを背に、赤子のアテナを抱きかかえて逃走した。
それから、黒髪の私はアイオロス討伐をシュラに指示して、シュラからアイオロスを瀕死に追いやったとの報告を聞いた。
シュラを下がらせて、教皇の間の奥の部屋でやっと自分を取り戻すと、朋友だったアイオロスを討ってしまった事に、哀しみの涙をひたすら流した。
その間も、あの声は私を嘲笑っていた。
憎いアイオロスを討てて、さぞ満足だろう。
これで、お前の罪がまた一つ出来た。
もう後戻りは出来ないぞ。
私のお陰で念願の教皇になれたんだ。
ありがたく思え。
フハハハハハ!!
私はその声に打ちのめされて、ただ涙を流す事しか出来なかった。
こんな形での教皇の座なんて欲しくなかった。
2014.8.18 haruka
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