馬鹿親子





(明治大正昭和あたり…?)





「…今日は父さんと留守番することにします。」

そう言って、私は母の外出の誘いを断った。
たまには母さんの相手もしてよね。
不満を漏らしつつも、母は鏡の向こうの自分に夢中である。
彼女は帽子の角度が決められないらしい。
ハイヒールがコツコツと鳴る玄関で、弾んだ声でじゃあ行ってくるわねと振り返る彼女に、いってらっしゃいと言葉をかける。
女の匂いが遠のいて、扉がギイと動き出す。
私はそれが閉まるのを、じっと待った。
バタン、とひとつ音を立て、そして辺りが静かになったのと同時に、貼り付けていた笑顔を、そっと奥の方へと隠した。
そっとそっと、隠した。

決意を固めた私の指先は、異常なほどに冷たかった。
冷たいくせに妙に汗ばんだ手のひらは、握ろうにも上手くいかない。
そんな身体を守ろうと、心臓は激しく鳴り、それがさらに私を虚しくさせる。
煩い程に鳴る心臓から、あの人と私を繋ぐ血液が、今もこうして送り出されているのだ。
嘔吐をしそうになるのを、唇を噛んで耐えた。
息が上がって、苦しくなった。

「…こんな運命など、誰も望んでいなかったのに。」

呟いた唇が震えている。
生まれ変わったらまたどこかで。
互いに冗談の中に本音を混ぜて笑った。
あの日目の前で繰り広げられた、幸せにも似たあのひと時が、虚しく頭の中で繰り返される。
私は、私を操る無色の糸を引きちぎろうとした。
運命とやらを動かしている無色の糸が、煩わしくてならなかった。

大昔に、私がほんの少しだけ愛してしまったあの人は今、私の父親として、存在している。
彼は父親として私を十八年育て、何も知らない私は無邪気に彼を「父さん」と呼んだ。

夢と呼ぶには鮮明で、記憶と呼ぶにはおぼろげな情景が瞼の裏に蘇ってくるようになったのは、十五の頃だっただろうか。
浮かんでは消えていくそれを追いかけるように、私は来る日も来る日も寝転がって瞼を閉じた。
落として散らばった楽譜を、ひとつひとつ順番に並べていくような感覚で、断片的だったそれに手を伸ばした。
吐き気がするほどの血生臭い光景の中を駆けていることもあれば、気心を許した仲間たちと笑みを零す場面もあった。
いくつも浮かんでくるそれらに、わたしは時に脂汗を掻き、また、つられて微笑んだりもした。
繰り返すうち、私は瞼の片隅に、一人の男の姿を見た。
父の姿形をしているのに、父ではない、不思議な感覚と共に瞼の隅に現れたその人を想うと、私の心はぎゅうと締め付けられ、じっとしてはいられなかった。
頭の中、鼓膜の向こう、瞳の奥、自分の身体全てから、彼を探した。
こころの底にあるものを引っ掻き回し後、朝の気配を感じた私は、瞼をそっと押し上げた。
涙が止まらなかった。
瞼の裏の情景が、遠い昔の、私が生まれる前の私自身の記憶であることに気付いたときには、もう手遅れだった。
昔愛したあの人が、今は私の父親として存在していることを理解しながら、私の中に居るあの頃の私が、父となってしまったあの人に想いを寄せはじめた。
両の目は、血のつながったあの人を、父と認めなかった。
昔愛したときのような熱のこもった視線を、向けてしまう様になった。

「なんで俺たちは、いつもいつも…」

紙の端で指先を切って、血が流れるのを見た時。
あの人の血が、この流れる赤に混ざっているのが悲しくて、嘔吐が止まらなかったことを思い出す。
声変わりを経験した私の声は、今ではすっかりあの頃と同じものになった。
熱を帯びたままあの人を求める私の声が、ふと蘇って、虚しくなった。
彼の名前を呼ぶ自分の声が、耳の奥から聴こえてくる。
あの頃のように呼んでしまったら、どうなるだろう。
私は一刻も早く、父に伝えたかった。
私の中に、もう一人の私が居るということを。
大昔の貴方の面影を探す、もう一人の私が居るということを。
父はたった一人、耐えてきたのだ。
私が生まれてから、今日まで。
私が成長するにつれて、父は私の目を見て話さなくなっていたけれど、それは私が少しずつ、昔の面影を残した顔立ちに変わっていくのを、見ていられなかったからだろう。
幼かった私は、ただただ父に嫌われているのだと思い、そんな父に対し、父さん父さんと纏わりついた。
好かれようと必死だった。
本当の理由も知らずに、ずっと昔に、ほんの少しだけ愛してしまったあの人を、父さん父さんと、無邪気に呼んで傷つけてた。
あの人はたった一人、狂った運命に目を背けながらも、幼い私の小さな手を引いて歩いていた。
私だけが、何も気付かずに。

居間に戻ると、父は私の方へ背を向けるようにして、椅子に座り本を読んでいた。
あの頃からこの人は、空気の変化には敏感だった。
私の心の動きに気が付いたのだろう、落とした視線は全く文字を追っておらず、私の様子を、そっと静かに窺っている。

「…父さん、母さんを見送ってきました。」

名を呼んでしまいたいと、思った。
けれど、喉を震わせようとしたもう一人の私の訴えを、父と子の関係の崩壊を恐れる私が、押し込め続けた。

「……父さ、ん、」

震える唇が、目の前にある背中に向かって言葉を放つ。
私のこの瞳は、もうこの背中を、父の大きな背中だと映そうとしない。
あの頃の面影を残した、わずかに震えるこの背中を、愛おしいものとして映し出す。
たった一人で耐えてきた、愛おしくて、気の毒な背中。
手を伸ばしても、いいだろうか。
決心の付かない手のひらは、空を掴んでそれっきりだ。
親子の絆よりも、そんな、切っても切れない絆よりも。
私は今、目の前に居るこの男と、あの頃のように、曖昧で脆く、艶めかしくて厭らしい、けれども純粋で一途だったあの関係を、取り戻したかった。
己の欲の深さが、汚らわしい。
溢れた涙が、目の前の姿をゆらゆら歪ませていた。
記憶の断片を、涙の上に並べてみた。
やっぱり私は、この人が愛おしいのだ。

「…今まで気付かなくて、ごめんなさい……ごめんな、さい……」

涙腺が静かに震え、ぼたぼたと私の首筋を濡らしている。
先程まで父親であった人は、本を膝の上に置いたまま、さらに背中を丸めて泣いていた。
この人が泣いている姿を、初めて見たような気がする。
ただただ互いのすすり泣く音だけが、部屋に響いている。

「もう、…私はもう、」

私の言葉に、父が顔を上げようとしている。
その動作は酷く緩やかで。
いつだったか、私は今のように、胸の中が空っぽになるような感覚を経験したことを思い出していた。
嗚呼、視線がもうすぐ、かち合ってしまう。

私たちはもう、親子ではいられない。
その事実だけが明確であり、希望に似た形をつくり、私たちを手招いた。



end.




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -