初めましてと空腹の朝


ゆっくり、まぶたを開ける。
二、三度まばたきして見つめた先には、カノンの知らない木目、色をした天井が広がっていた。

「ん、気が付いたか」

すぐそばで男の人の声がして、身体を強張らせる。

そちらに顔を向けると、くすんだ長い銀の髪をゆるく束ねた男性が、気だるげな目で見下ろしてきていた。

知らない場所。知らないひと。
それでも恐怖心はなく、ただ不思議に思いながら、どこか舌ったるい口振りでカノンは問うた。

「ここは……?」

男性が淡々と回答した。

「俺たちの家だ。お前さんの家の場所が分からなかったから、とりあえずここへ運ばせてもらった」

「そう、ですか……」

それを聞いたカノンは、内心戸惑いながら、静かにそう溢した。

薬品と草のにおいが仄かに漂う部屋。
カノンはゆっくり、またひとつまばたきする。

目は冴えているようで、けれど、重たい。

「眠そうだな。まだ寝ていて良い。疲れただろう」

トーンを落として労るように言った男性に、カノンは口を開きかけて、やめた。

申し訳ないとか帰らなくちゃとか、そういう考えが浮かんでは、すぐに沈んでしまう。本当はまだ、とても眠たかった。





返事の代わりに、ふたたび寝息をたて始めた名も知れぬ少女は、甥と姪が突然連れ帰ってきたのだった。

ふたりが戻ったら、ジオルは雷を落とすつもりでいた。街で姿を晒し騒ぎを起こしたことを。でも。

険しく眉を寄せながらも、弱々しげだったレイ。
眠る少女を抱え、ひどく不安そうな顔をしていたカイル。

彼らの様子に、叔父であるジオルの怒りはどこかへ引っ込んでしまった。
同時に、厄介なことが起きたのだと悟る。

深く深くため息を吐き出すと、静かに扉が開いた。

「……メリル」

入ってきた細身の中年女性は、心配そうにジオルと少女とを見つめ、やがて言葉を紡ぐ。

「その子の様子はどう?」

「……一度目を覚ました。すぐ寝ちまったが。他は特に変わりないよ」

「そう……」

どちらの声もほの暗く、室内に重く溶け落ちる。
良くない事態が起きたことは、この家の主人の妻であるメリルも、察していた。

「あいつらはどうしてる」

今度はジオルが訊ねた。

「夕食を食べてるわ。すっごく落ち込んだ顔でね」

嫌味が含まれた回答に視線だけを寄越す。

「あなたも親なら、ちゃんと気に掛けてあげなさい。励ましのひとつもないなんて、反省させるだけが教育じゃあないのよ」

彼女も、一人息子を持つ母親だ。

その母親としてのメリルの叱咤を、ジオルはどこ吹く風といった態度で耳にしまう。
彼とて、そこまで冷たく容赦のない人物であるつもりはない。カイルとレイの、たった一人の保護者なのである。

だけれども。

「名前も知らない赤の他人の……一般人の少女を巻き込んでも?」

メリルは言葉を詰まらせた。

「他所の家の子どもに、怪我させちまったんだ。責任とって謝るのも、こっちの勤めだろ」

いっそう低く、掠れた声でそう続けたジオル。

なにも双子たちだけではない。
いま、戸惑っているのはジオルだって同じなのだと、メリルは思い至る。

何よりカイルたちは、魔法使いという特異な存在。
例えて言ったような次元では、到底済まないかもしれない出来事だから。

「まあ、もう怒る気にもならんけどな」

しかし一転、口調があっけらかんとしたものに変わって、メリルはすぐさまジト目を向けた。

「"ならない"じゃなくて"なれない"の間違いじゃないの?」

ジオルはさあなと、肩をすくめてみせただけ。

「まったくもう……。あの子たちの帰りを待ってるときのあんた、本当に鬼みたいで気が滅入ったっていうのに」

そのことは聞き流しておいた。

少しだけ降りた沈黙に、ふう、と息を吐く音。

「……ともかく、この子も、何事もなく帰してあげられるといいわね」

静かに眠る少女を、深く案じるように見つめるメリルの、母性さえ滲む横顔。

「…………そうだな」

「…………じゃあ、あたしは戻るけど、何かあったら呼んでちょうだい」

ちゃんとご飯も食べるのよと、そう言い置いて彼女は出ていく。

気遣いは素直にありがたい。
だが、そう簡単にジオルの心配は払拭されない。

(本当に何事もないなら、良いんだが)

眉間に皺が刻まれる。

魔物を星海(しんかい)へと還す直前、カイルとレイが聞いた声。

禍々しい魔法。

巻き添えとなったこの少女から感じられた気配。

まだ、憶測でしかないけれど。

(ったく、仕様がないな)

やや乱雑に頭を掻く。

持ち込まれたからには、最後まで面倒を見てやらなければならない。

もう一度ため息を溢して、ジオルは天井を仰いだ。

いったい、どこまでが偶然なのだろう。





次に目を覚ましたのは、朝だった。

建物に反響する鳥の羽ばたき、聞こえてこない家畜の鳴き声。
窓から射し込む光の量は少なく、夜明けの余韻を残す室内を目にして、カノンは不思議な気分になる。

(そうだ、わたしの家じゃないんだっけ……)

どれくらい寝ていたのだろう。こうして起きる前にも少しだけ話をしたあの男性は。
考えを巡らせていると、扉がノックされた。

そちらに目を向ければ、見覚えのある人物が入ってくる。

白銀の髪が揺れる。カノンを見て嬉しそうに笑んだのは、あの夜の世界から連れ出してくれた彼女───

「良かった! 目が覚めたんだね!」

「…………?」

───では、なかった。

(あれ、男の子?)

髪色、顔立ち、確かにあのときの少女と同じであるのに、掛けられた声は少年のそれだった。

キョトンとしたカノンに、彼は分かっているのか、言葉を続ける。

「君を助けた女の子とそっくりな顔で、びっくりしたよね。僕はカイル。その女の子の、双子の兄だよ」

「ふたごの……」

確かに、まず髪型が違った。
涼やかな雰囲気は同じだけれど、カイルと名乗った目の前の少年は、柔和さを滲ませている。

はたと、寝たままでいるのは失礼かという考えが過り、身体を起こそうとした。

その拍子に、背中に鋭い痛みが走る。

「あっ、無理しちゃだめ! まだ寝てたほうが……」

「だ、大丈夫、いいの、起きたかったから」

口では強がりながら、疼痛に耐えるのを隠すこともできず。すかさず肩を支えてくれたカイルが、心配そうに眉尻を下げていた。

───背中の痛みは、確か何かに殴られたせいで。

どうにか起こした上半身が安定すると、支えてくれていた手が離れていく。これだけで額にじわりと汗を掻くとは。

「ごめんね、ありがとう」

「……いいんだ、これくらい」

述べた礼に対して、カイルの表情は強張ってしまった。

「ううん、本当に。
 遅くなったけど、わたしはカノンっていうの」

それでも、自らも名乗って、気にしないでと伝わるように笑ってみせる。少しだけ安堵したように、カイルは笑みを浮かべてくれた。

「……そっか。それが、君の名前なんだね」

依然として眉尻は下げたままだったが、よろしくねと、初めましての挨拶を交わした。

ちょうどそのとき、また扉の開く音がして、ふたり同時にそちらを見た。

「もう起き上がってるのか」

「あっ」

驚いたか感心しているのか、どちらともとれるニュアンスで発言したのは、少しの間目覚めたときにそばにいた男性だった。

「おはよう、兄さん、レイ」

カイルが挨拶の言葉をかける。
男性は兄さんと、そのうしろから顔を出した少女がレイ、と呼ばれたように見えた。
彼女はカノンを見るや、眉尻を下げながらぱっと笑って、駆け寄ってくる。

「…………大丈夫?」

「うん、いまは、平気。
 ……わたしの名前はカノン。ありがとう、助けてくれて」

自分の名と謝礼を口にすると、彼女は一瞬言葉を詰まらせ、頷いた。

「いいの。私はレイ。……やっと自己紹介できたね」

苦笑したレイに、カノンもつられて「そうだね」と頬笑んだ。

逃げ回ったり、寝てしまったり、あのときからずっと名乗り合う余裕もなかったけれど、穏やかな朝を迎えた今、ようやく初めましてが言えたことに、胸があたたかくなった。

カイルがおもむろにレイの隣へ並ぶ。

「さっき話した、僕の双子の妹だよ」

「見て分かったと思うけど」

「うん、すぐに分かった」

男女の双子で、異なる身長や瞳の色。けれど、言葉、表情、行動の端々に表れるひとかけらは、とてもよく似ている。
仲が良さそうだと、カノンは羨ましくさえ思った。

「談笑中悪いが、俺にも自己紹介させてくれ」

咳ばらいが聞こえて、三人は男性の方を向いた。

「カノンさん、と言ったな。俺はジオルという」

男性、ことジオルは、片目が隠れた前髪をそのままに、器用に歩いてくる。

「で、こいつらの叔父。親代わりのな」

そして、ぽん、といささか雑にカイルとレイの頭に手を乗せた。レイが不服そうな顔をする。

「起きたばかりのところ悪いが、いろいろ話したいことがある。親御さんにも無断で君をお預かりしてしまったわけだし、まずは連絡させていただきたいんだが」

「あ…………、それならわたし───」

ぐうぅぅ。

「…………」

返事を、言い切るより前に。あまりにも唐突に。

その音は全員の耳にしっかりと届いて、申し分ない威力でぽかんとした顔をさせた。

まさかこのタイミングで。

室内に鳴り響いたのは、カノンの腹の虫。

口を開けたまま硬直していたカノンは、恥ずかしさでじわじわと頬を真っ赤にして、「あ、あ、その、えっと、」としどろもどろになる。

なぜ、このタイミングで。

「…………まあ、ずっと寝てたしな。そりゃ腹も空いてるだろう。」

「えっ」

「先に食事にするといい」

「で、でも…………」

ジオルのフォローと心遣いに申し訳なく思っていると、カイルが「気にしないで」と朗らかに言った。

「君の分もね、用意してあるんだ。いつ起きても、すぐ食べられるようにって」

カイルだけではない、レイやジオルも、優しく頷いている。

「そ……そっか。そうだったんだ…………あの、本当にすみません…………ありがとうございます…………」

「いいからいいから」

人様の家で寝かせてもらった上に、食事までいただけるなんて。

話はあとにしようと口にして、ジオルが退室した。
カイルとレイも朝食を取りに出ていき、部屋はふたたび、静かになる。

恥ずかしいやら嬉しいやら。
カノンは少しだけうつむいて、彼らが戻るのを待った。


2018/12/24.







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -