初めましてと空腹の朝
ゆっくり、まぶたを開ける。 二、三度まばたきして見つめた先には、カノンの知らない木目、色をした天井が広がっていた。
「ん、気が付いたか」
すぐそばで男の人の声がして、身体を強張らせる。
そちらに顔を向けると、くすんだ長い銀の髪をゆるく束ねた男性が、気だるげな目で見下ろしてきていた。
知らない場所。知らないひと。 それでも恐怖心はなく、ただ不思議に思いながら、どこか舌ったるい口振りでカノンは問うた。
「ここは……?」
男性が淡々と回答した。
「俺たちの家だ。お前さんの家の場所が分からなかったから、とりあえずここへ運ばせてもらった」
「そう、ですか……」
それを聞いたカノンは、内心戸惑いながら、静かにそう溢した。
薬品と草のにおいが仄かに漂う部屋。 カノンはゆっくり、またひとつまばたきする。
目は冴えているようで、けれど、重たい。
「眠そうだな。まだ寝ていて良い。疲れただろう」
トーンを落として労るように言った男性に、カノンは口を開きかけて、やめた。
申し訳ないとか帰らなくちゃとか、そういう考えが浮かんでは、すぐに沈んでしまう。本当はまだ、とても眠たかった。
*
返事の代わりに、ふたたび寝息をたて始めた名も知れぬ少女は、甥と姪が突然連れ帰ってきたのだった。
ふたりが戻ったら、ジオルは雷を落とすつもりでいた。街で姿を晒し騒ぎを起こしたことを。でも。
険しく眉を寄せながらも、弱々しげだったレイ。 眠る少女を抱え、ひどく不安そうな顔をしていたカイル。
彼らの様子に、叔父であるジオルの怒りはどこかへ引っ込んでしまった。 同時に、厄介なことが起きたのだと悟る。
深く深くため息を吐き出すと、静かに扉が開いた。
「……メリル」
入ってきた細身の中年女性は、心配そうにジオルと少女とを見つめ、やがて言葉を紡ぐ。
「その子の様子はどう?」
「……一度目を覚ました。すぐ寝ちまったが。他は特に変わりないよ」
「そう……」
どちらの声もほの暗く、室内に重く溶け落ちる。 良くない事態が起きたことは、この家の主人の妻であるメリルも、察していた。
「あいつらはどうしてる」
今度はジオルが訊ねた。
「夕食を食べてるわ。すっごく落ち込んだ顔でね」
嫌味が含まれた回答に視線だけを寄越す。
「あなたも親なら、ちゃんと気に掛けてあげなさい。励ましのひとつもないなんて、反省させるだけが教育じゃあないのよ」
彼女も、一人息子を持つ母親だ。
その母親としてのメリルの叱咤を、ジオルはどこ吹く風といった態度で耳にしまう。 彼とて、そこまで冷たく容赦のない人物であるつもりはない。カイルとレイの、たった一人の保護者なのである。
だけれども。
「名前も知らない赤の他人の……一般人の少女を巻き込んでも?」
メリルは言葉を詰まらせた。
「他所の家の子どもに、怪我させちまったんだ。責任とって謝るのも、こっちの勤めだろ」
いっそう低く、掠れた声でそう続けたジオル。
なにも双子たちだけではない。 いま、戸惑っているのはジオルだって同じなのだと、メリルは思い至る。
何よりカイルたちは、魔法使いという特異な存在。 例えて言ったような次元では、到底済まないかもしれない出来事だから。
「まあ、もう怒る気にもならんけどな」
しかし一転、口調があっけらかんとしたものに変わって、メリルはすぐさまジト目を向けた。
「"ならない"じゃなくて"なれない"の間違いじゃないの?」
ジオルはさあなと、肩をすくめてみせただけ。
「まったくもう……。あの子たちの帰りを待ってるときのあんた、本当に鬼みたいで気が滅入ったっていうのに」
そのことは聞き流しておいた。
少しだけ降りた沈黙に、ふう、と息を吐く音。
「……ともかく、この子も、何事もなく帰してあげられるといいわね」
静かに眠る少女を、深く案じるように見つめるメリルの、母性さえ滲む横顔。
「…………そうだな」
「…………じゃあ、あたしは戻るけど、何かあったら呼んでちょうだい」
ちゃんとご飯も食べるのよと、そう言い置いて彼女は出ていく。
気遣いは素直にありがたい。 だが、そう簡単にジオルの心配は払拭されない。
(本当に何事もないなら、良いんだが)
眉間に皺が刻まれる。
魔物を星海(しんかい)へと還す直前、カイルとレイが聞いた声。
禍々しい魔法。
巻き添えとなったこの少女から感じられた気配。
まだ、憶測でしかないけれど。
(ったく、仕様がないな)
やや乱雑に頭を掻く。
持ち込まれたからには、最後まで面倒を見てやらなければならない。
もう一度ため息を溢して、ジオルは天井を仰いだ。
いったい、どこまでが偶然なのだろう。
*
次に目を覚ましたのは、朝だった。
建物に反響する鳥の羽ばたき、聞こえてこない家畜の鳴き声。 窓から射し込む光の量は少なく、夜明けの余韻を残す室内を目にして、カノンは不思議な気分になる。
(そうだ、わたしの家じゃないんだっけ……)
どれくらい寝ていたのだろう。こうして起きる前にも少しだけ話をしたあの男性は。 考えを巡らせていると、扉がノックされた。
そちらに目を向ければ、見覚えのある人物が入ってくる。
白銀の髪が揺れる。カノンを見て嬉しそうに笑んだのは、あの夜の世界から連れ出してくれた彼女───
「良かった! 目が覚めたんだね!」
「…………?」
───では、なかった。
(あれ、男の子?)
髪色、顔立ち、確かにあのときの少女と同じであるのに、掛けられた声は少年のそれだった。
キョトンとしたカノンに、彼は分かっているのか、言葉を続ける。
「君を助けた女の子とそっくりな顔で、びっくりしたよね。僕はカイル。その女の子の、双子の兄だよ」
「ふたごの……」
確かに、まず髪型が違った。 涼やかな雰囲気は同じだけれど、カイルと名乗った目の前の少年は、柔和さを滲ませている。
はたと、寝たままでいるのは失礼かという考えが過り、身体を起こそうとした。
その拍子に、背中に鋭い痛みが走る。
「あっ、無理しちゃだめ! まだ寝てたほうが……」
「だ、大丈夫、いいの、起きたかったから」
口では強がりながら、疼痛に耐えるのを隠すこともできず。すかさず肩を支えてくれたカイルが、心配そうに眉尻を下げていた。
───背中の痛みは、確か何かに殴られたせいで。
どうにか起こした上半身が安定すると、支えてくれていた手が離れていく。これだけで額にじわりと汗を掻くとは。
「ごめんね、ありがとう」
「……いいんだ、これくらい」
述べた礼に対して、カイルの表情は強張ってしまった。
「ううん、本当に。 遅くなったけど、わたしはカノンっていうの」
それでも、自らも名乗って、気にしないでと伝わるように笑ってみせる。少しだけ安堵したように、カイルは笑みを浮かべてくれた。
「……そっか。それが、君の名前なんだね」
依然として眉尻は下げたままだったが、よろしくねと、初めましての挨拶を交わした。
ちょうどそのとき、また扉の開く音がして、ふたり同時にそちらを見た。
「もう起き上がってるのか」
「あっ」
驚いたか感心しているのか、どちらともとれるニュアンスで発言したのは、少しの間目覚めたときにそばにいた男性だった。
「おはよう、兄さん、レイ」
カイルが挨拶の言葉をかける。 男性は兄さんと、そのうしろから顔を出した少女がレイ、と呼ばれたように見えた。 彼女はカノンを見るや、眉尻を下げながらぱっと笑って、駆け寄ってくる。
「…………大丈夫?」
「うん、いまは、平気。 ……わたしの名前はカノン。ありがとう、助けてくれて」
自分の名と謝礼を口にすると、彼女は一瞬言葉を詰まらせ、頷いた。
「いいの。私はレイ。……やっと自己紹介できたね」
苦笑したレイに、カノンもつられて「そうだね」と頬笑んだ。
逃げ回ったり、寝てしまったり、あのときからずっと名乗り合う余裕もなかったけれど、穏やかな朝を迎えた今、ようやく初めましてが言えたことに、胸があたたかくなった。
カイルがおもむろにレイの隣へ並ぶ。
「さっき話した、僕の双子の妹だよ」
「見て分かったと思うけど」
「うん、すぐに分かった」
男女の双子で、異なる身長や瞳の色。けれど、言葉、表情、行動の端々に表れるひとかけらは、とてもよく似ている。 仲が良さそうだと、カノンは羨ましくさえ思った。
「談笑中悪いが、俺にも自己紹介させてくれ」
咳ばらいが聞こえて、三人は男性の方を向いた。
「カノンさん、と言ったな。俺はジオルという」
男性、ことジオルは、片目が隠れた前髪をそのままに、器用に歩いてくる。
「で、こいつらの叔父。親代わりのな」
そして、ぽん、といささか雑にカイルとレイの頭に手を乗せた。レイが不服そうな顔をする。
「起きたばかりのところ悪いが、いろいろ話したいことがある。親御さんにも無断で君をお預かりしてしまったわけだし、まずは連絡させていただきたいんだが」
「あ…………、それならわたし───」
ぐうぅぅ。
「…………」
返事を、言い切るより前に。あまりにも唐突に。
その音は全員の耳にしっかりと届いて、申し分ない威力でぽかんとした顔をさせた。
まさかこのタイミングで。
室内に鳴り響いたのは、カノンの腹の虫。
口を開けたまま硬直していたカノンは、恥ずかしさでじわじわと頬を真っ赤にして、「あ、あ、その、えっと、」としどろもどろになる。
なぜ、このタイミングで。
「…………まあ、ずっと寝てたしな。そりゃ腹も空いてるだろう。」
「えっ」
「先に食事にするといい」
「で、でも…………」
ジオルのフォローと心遣いに申し訳なく思っていると、カイルが「気にしないで」と朗らかに言った。
「君の分もね、用意してあるんだ。いつ起きても、すぐ食べられるようにって」
カイルだけではない、レイやジオルも、優しく頷いている。
「そ……そっか。そうだったんだ…………あの、本当にすみません…………ありがとうございます…………」
「いいからいいから」
人様の家で寝かせてもらった上に、食事までいただけるなんて。
話はあとにしようと口にして、ジオルが退室した。 カイルとレイも朝食を取りに出ていき、部屋はふたたび、静かになる。
恥ずかしいやら嬉しいやら。 カノンは少しだけうつむいて、彼らが戻るのを待った。
2018/12/24.
前 次
|
|