カナリア | ナノ

 レッスンと学業を両立させることは難しいだろうと予想していた――それは見事に的中し――だが予想を上回る難しさに、リンの身体面と精神面は疲労を重ねていた。
 レッスンによって疲れた状態で学業に励むが、疲労から生まれた睡魔は集中力を根こそぎ奪い、講義中に寝る日々が続いている。せめて板書だけはしておきたいのだが、教授の声は夢へと誘う甘美な子守唄に聞こえ、気づいた時には講義が終了しているというパターンは少なくない。
 板書できなかったところや重要なところを友人に教えてもらうことで試験対策をしているが、まともに内容は以前に比べ身に入っておらず、試験に対する不安は増すばかりだった。

「はぁ……」
 溜め息を一つ漏らしながら、リンはたくさんの人が行き交う大学の廊下を歩く。手にある教科書とノートは先程まで講義があった授業で、また寝てしまったこと自分に言いようのない憤りを覚えた。
 寝るつもりはまったくないのに、身体は思っている以上に疲れているようで、改めて自分の体力の低さを知る。レンはどんなに忙しくてもできる限り講義を受け、寝ている様などリンに見せなかった。
 あの時は疲れていないのか、とレンの身体を心配していたが、今はレンの姿勢に憧憬と尊敬の念を抱く。誰よりもハードな生活を送っているのに、それを感じさせず勉学は常に上位に居続けていて、レッスンも同様に力を入れているらしく、レンの声は日に日に澄み切った綺麗な歌声になっている。
「この講義は明日質問しに行こう。わからないままにしたら駄目だもんね」
 そんな彼氏の姿勢を見てきたからか、片方だけ手を抜くなんてことは絶対にしたくなかった。自分で入ると決めた大学、やってみると決めた芸能活動、誰かが強要した訳ではなく、自分の意志で決めたから全力で取り組みたい。
 カナリアのデビューは目前で、歌やダンスを教えてくれている講師も力が入っていることが伝わり、事務所も慌ただしくなっている。社長とマネージャーはカナリアに期待を抱いており、リンはその期待に応えなければならないと、どこか義務のようなものを感じていた――それをミクに話すとそんなに気を張る必要はないと諭されたが。
「そういえば、この大学ってバナナイスのメンバーの一人が通っているんだよね」
「そうそう! LENくんが通っているんだって! 前友達が廊下を歩いてるの見て発狂しかけたって言っていたんだー。羨ましいっ!」
「あたしも生のLENくん見たーいっ!」
 窓際に佇み会話に花を咲かせる女の子たちの横を通り過ぎると、リンの耳に彼女たちの声が入った。LENがこの大学に通っていることを知る者は少ないが、本当にファンの子はどこからかその情報を入手し、この大学に通おうとし、それが原因で年々女の子の受験者が増え、倍率もリンが受験した頃に比べると高くなっている。
 LENは大学に通っていると以前メディアには告げたが、どこに通っているかまでは言わなかったのだが、どこからか個人情報が流出しているようで、レンは現代社会の恐ろしさを実感していた。
 今の会話を聞いた限り彼女たちはLENが通っていることを偶然知り、LENに会いたいという気持ちが強くなっているのだろう。
「レンは本当に人気者なんだなあ……」
 たくさんの人に愛されて――少々行き過ぎた愛もあるらしいが――レンのことを知る者としては嬉しい限りである。自分が彼女なんて知られれば瞬く間に嫉妬を向けられ、最悪の場合虐めに遭うことも考えられるが、レンを想う気持ちの強さは誰にも負けない。
 不意にポケットに入れていた携帯電話が鳴り響き、流れた着信音にリンは慌てて携帯電話を開く。

――今大学にいるんだけど、会えない?
 短い文章からレンの気持ちが伝わって、リンは返信の文を打つ。私も会いたい、という短い文章だったが、それにはリンの気持ちがたくさん詰まっている。
 今時の若者が打つメールとは思えない短さだが、自分の思いを伝えるのに気取った文や余計な前振りはいらないとリンとレンは考えていて、二人のメール文はいつも淡々と、けれど何よりも気持ちが篭っていた。
 返信のメールを送って数分後にはレンからのメールが届き、学校から少し離れたカフェで待っていることが綴られていて、リンから自然と笑みが零れる。レッスンに時間を取られ、最近まともにレンに会っていないので、久々の逢瀬に心踊るのは仕方のないことで。
「レンに会える……!」
 レンを待たせてはいけないと、リンの足は自然と速くなり、教授に怒られないギリギリの速度で廊下を歩いた。今日もレッスンがあるので、長い間共にいることはできないから、少しでもその時間を増やしたい。
 途中で出会った友人に適当に挨拶をして、リンは大学の敷地から飛び出すと、レンが指定したカフェへと急ぐ。
 話したいこと、聞きたいことがたくさんある中で、レンに話せないことがあるという罪悪感にリンは気づかない振りをした。



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