あくる朝、名前は筆を片手に朝を迎えた。昨晩、描きかけだったモノをなんとなく終わらせたいと思ったからだ。ちなみに、御剣が帰ってきたのが深夜2時頃。もちろん名前は起きていて、それを悟られるまいと静かに静かに作業を進めていたのだった。


「(朝ごはん、作らないと)」


ぶっ通しでやっていたからかうっすらとくまが残る目をして、なんとなく覚束無い足取りで自室を出る。いままでは朝食は食べないタイプであったので徹夜をした後はすぐに眠りこけていた。…が、最近はそうもいかない。同居人である御剣怜侍は朝食を好む人間だったからだ。ああ、朝ごはん作るんだから徹夜なんてしなければよかった、と名前は酷く後悔する。明らかに失敗だった。しかし、なんとしてもあの時仕上げたいと思ってしまったのだから仕方が無い。思った時にやらないと、思ったような作品はできないものである。ゆっくりと扉を開けて、リビングへ向かう。手にはところどころ絵の具がついていたので、まずそれを落とそうと蛇口をひねる。白く、艶やかな床にひかれたマット。裸足の足にひんやりとした感覚。それがどうにも気持ちがいい。きゅっと回された蛇口から出る流水にゆっくりと手をつける。すこし、頭も冷えたようだった。


「…あ」


と、思ったのも束の間、ふらりと全身の力が抜けるような感覚に陥る。久々の、この感覚。名前はどうすることもできず、細い身体をめいっぱい重力に任せてマットの上に落とす。…硬い大理石の上じゃなくてよかった、と場違いなことを思い浮かべながら、名前は意識を手放した。



▽△▽




一方、朝が早い御剣怜侍はもちろん起きていた。2時に帰ってきたというのに、日々の習慣は恐ろしい。てきぱきと着替えを済ませて、すこし早めにリビングへ向かおうと扉に手をかける。

そのとき、ばたん、と扉の向こうで朝には似つかわしくない鈍い音が聞こえた。この先にいるのはもちろん、彼女。なんであれ彼女がなにかをしたのだと素早く判断する。一瞬だけ止まった手を無理矢理動かして勢いよく扉を開ける。しん、といやに静まったリビング。名前の姿は、ない。ふと、キッチンの方で蛇口が開きっぱなしなのが目についた、じゃーと淀みなく流れる水。はっとした。


「…苗字くん!」



ばたばたと慌ただしく駆け寄るとやはりいたのは小さな彼女。だらり、と腕を横にさせマットに転がっている。いやな汗が流れた。息苦しさを感じながらそばへ駆け寄る。もう一度苗字くん、と呼ぶ声にも反応はない。小さな身体を抱き抱えて、顔色と呼吸を見る。呼吸はあったが顔色が悪い。瞑られた目の下にはうっすらとくまができ、眉をすこし顰めている。そんな彼女に必死になって声をかける。ただ、寝ているだけのようだった。

「そう、か…」

久々に心が落ち着かなかった、と思う。死んだように眠る彼女に一抹の不安。未だ音を立てて流れる水をゆっくりとした動作で止める。未だに心臓の音がうるさい。こんなにも、自分は過保護だっただろうか。彼女を横抱きにして、白いソファに寝かせようとすると、名前が少しだけ身じろいだ。その小さな動作にも、動揺する。如何せん女性、このような少女を相手にするのはほぼない。眉間にシワを寄せて名前の顔を見ると、先程より線の多くなった眉間。まるで自分のようだと御剣は思う。加えて、ぎゅっと奥歯を噛み締める動作にきつく瞑られた瞳。悪夢にうなされているというよりか、物理的に痛みに耐えているようだった。そこまで考えて、御剣は急いで体を下ろす。どこか、怪我をしているのかもしれない。失礼を承知で、少女にかかる衣類の裾を捲る。


ソレを見た瞬間、御剣はなんとも表現し難い声にならない声を上げる。そこで見たモノ。その布の下にあったモノとは。思わず、「これは…!」と声が出る。青黒く変色した皮膚。その殆どが殴打によるものらしく、血等は確認できないが、状況がひどい。無意識のうちに、一歩だけ後ずさる。凄惨なまでの殴られた後。たまたまどこかでぶつけたとか、そういったアレではないことは明白だった。さらに、消えかけているものからここ数ヶ月内に出来たであろうモノまで多種多様。明らかに、ダレかによる暴力だった。ある種いつもみる死体よりも、酷いモノではないのだろうか。一体どうしてこんなモノが、この少女の身体に。



"その、前の家の方で色々ありまして…"
"私の方で保護したんです、彼女を"



思い出したのはあの日のあの言葉。阿江無賢がミョウに口ごもりながら発した言葉。色々あった、とは、間違いなくこれの事だった。ぐ、と御剣は奥歯を噛む。こんな小さな少女は、私が引き取る前までずっとこのような暴力、いや、虐待を受けていたというのか。出会ってまだそんなに経ってはいないが、少なくとも私の前では笑顔を見せるようになってきたこの子が。つい先日、友達ができたと本当に嬉しそうに語っていた少女が。また、彼女の過ごしていて彼女に不満などは一切なかった。本当に、いい子だった。つまり、彼女に非は無かったはずだった。言われのない暴力、肉体的な力で、この幼気な少女をねじ伏せていたのか。そう思うと、御剣はどうしようもなくやるせない気持ちになった。憤慨、そして小さな後悔。もっと自分が早く引き取っていれば…そんなことは無理な話なのだが、御剣はそんなことしか考えられないほど、目の前のことに目を回していた。そして、小さな身体に抱え込む闇を、どう処理したらいいのか考えていた。

そっと衣類を戻し、落ち着こうと洗面所まで歩く。ばたん、と閉じられた扉。また静まり返る空間に、イライラした。

「…くそっ」

御剣怜侍が普段使うことのないような言葉遣いで、だん、と力強く茶色の扉を殴る。拳の痛みなんてどうでもよかった。こんなモノを、見てしまった。まだそんなに打ち解けていないのに、恐らく彼女の知られたくないであろうものを見てしまった。その後悔と不安、苛立ち。あんなものを見たあとで、彼女が目を覚ました時自分はどうすれば良いのだろうか。見なかったフリ、そんなこと、したくは無かった。揺るぎない自分の中の正義が牙を剥く。ふつふつと込み上げる怒り。見て見ぬふりなんて、できない。


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