さっぱりさせた身体にワンピースを着せ、カーディガンを羽織ったわたしは洗面台の鏡の前に立つ。…この際、下着があったことについては深く言及しない事にしよう。ひどい顔、と思った。疲れきった顔。お風呂に入ったおかげで顔色は赤みを帯びていたが、それでもストレスが溜まっていることがひと目でわかる顔をしていた。ぽたぽたと前髪の先から水滴が落ちる。いやだなあ。正直なところ、この脱衣所という空間から出たくなかった。出たくなかったが、いつまでもいたらドアを開けて入ってくるに違いない。気乗りしない気持ちで重い足を無理やり動かす。



「ああ、おかえり」

さも当たり前かのようにあいさつして、テレビを見ているこの男が憎い。また、男が座るテーブルの上にはさも当たり前かのように並ぶ二つのオレンジジュース。こいつ、わたしがオレンジジュースが好きだということを知っているのか。座れと言わんばかりに男が椅子を引く。どうにも、座らなければいけないらしい。渋々、といったように座り、オレンジジュースをじいっと見つめる。

「…そうか」

え、と思い顔を上げると同時に、目の前からオレンジジュースが取り上げられた。そして、その自然な動作でオレンジジュースを一口飲む。…ん?わざわざ用意したというのに、わたしには飲ませないということなのか。おのれ、わたしのオレンジジュースを。と、心の中だけは威勢がいいわたしは恨めしげに(表情に出さないように努力しているが)男を見つめる。そして再びわたしのまえにことんと置かれるコップ。そして、また何事も無かったかのようににこにこと笑う。…どうやら、毒味をしたということ、なのだろうか。さっきわたしは彼から渡された摩り下ろしりんごを何の躊躇いもなく口に含んだというのに。いまさら、気にしてない(と言ったら嘘になる)というのに。変なところで気を回してくる誘拐犯はもはや奇妙そのものだ。置かれたコップを見て、わたしは小さく会釈をしてそれを口に含む。酸味のきいたオレンジが喉を通る。また少しだけ、和らいだ空気。…いかんいかん、なにをわたしはこんな、誘拐犯の目の前でリラックスしているのか。もっと危機感をもて、自分。ちらりとコップから目をそらすと入ってくるのは、変わらずにこにこと笑顔を浮かべる男、成歩堂さん。満足そうに、笑っている。やはりおかしい、見た目は、見た目だけは誠実そうなのに。


「名前ちゃん、なにかしてほしいことある?」

「、…いえ、その」

思わず、かえりたいですなんて言いそうになった。危ない。このアットホームな空間に流されて刺激するところだった。そんなわたしを不思議に思うも、彼は続ける。「その服、やっぱり似合うね」「着てくれてよかった」穏やかそうに、笑うのだった。

「……」

暫しの沈黙。遠くで、カラスが鳴く音がした。気づけばもう夕方が近いのか。夜だ。夜が来る。明るいうちはいいものの、やはり謎の空間での夜というものは怖い。まだまだ青年だ、夜なんて、何が起きるかわかったものじゃない。そう考えると恐かった。
携帯、返してくれないかな。…無理か、助けを呼べるものね。


「携帯、は…返せない、ごめん」

どき、とした。心を見透かされたかのようにされた携帯の話。は、はとまた心臓がきゅっとしまる。何の前触れもなく、まさに今、わたしが考えていたことが、話題になる。偶然だろうとは思ったが、わりかし神経質になっているわたしにとってはまったくの大問題だ。動揺しているのが、自分でもわかる。彼も、気づいている。「名前ちゃんのためなんだ」と、いう。しきりに、ごめんという。わたしのためなんて、なにがだよ。わたしのためを思うなら家に帰してくれ。もうなんだか、止まっていた涙が溢れてきそうだった。もう何も考えたくない。

そんなわたしを見て、かた、と男が席を立つ。徐々にわたしの方へ手が伸ばされる。もう、反抗も反応さえする気がない。これからなにをされても、耐えるつもりでいた。いまなら、耐えられる。そう思っていたのに、


「名前ちゃん…」

「…え」

伸ばされた手はわたしの肩を撫でながら背中へ回される。もう片方の腕も。優しく引かれ、男の大きな胸板に顔を押し付けられる。とても、とても丁寧な抱擁だった。彼はそれ以上何をするわけでもなく、壊れ物を扱うかのように、ぎこちない手つきでわたしの身体を手の中に収める。そのあまりにも、優しい、慈愛の満ちた行為に、不覚にも少しだけ安心してしまった。なんとなく、この危機的状況でとても優しくしてくれる加害者に、なんらかの情がわいてしまったようだった。だめだ、そんなの。おかしい。おかしいことなのに。彼の香りが鼻を掠める。石鹸の匂いがした。青いスーツからは、男では珍しい花のような匂い。きっと柔軟剤だ。ほんのりと厚い服越しに伝わる体温。背中に回された手からはそれ以上の熱がわたしを温める。この人は犯人なのに。どうしようもなく、気を許してしまう馬鹿な自分がいた。


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