さらりと耳にかけた黒い髪がうなじを通って、頬を通って、鎖骨のあたりに流れるのが綺麗だと思った。美しいと、思った。かちこちと時を刻む時計の音。しんと静まり返る図書室。真剣に文字の羅列を追いかけるまた黒い目も、美しいと思った。綺麗な横顔。本を読んでいるというのに伸ばされた背筋。短すぎない制服のスカート。すべてがすべて、美しいと思った。こんな気持ちになったのは初めてだ。ひとりの女性を追いかけて、部活の合間にこうやって図書室を訪れるという行為もまた、初めてだった。奥から二列目の窓際。その席が彼女の定位置らしい。俺が知っているのは、その人が先輩だということ。本が好きだということ。それくらいしかない。出会ったのだって偶然。むしろ出会ったなんて言えない。たまたま訪れた図書室で、たまたま彼女とすれ違っただけ。出会ったなんて、言えない。一方的に俺が彼女を見つけて、恋をしただけだ。それからこうやって通う図書室。最初は遠くに座って見ていた。けれど、その距離は徐々に近くなっている。そのことに、彼女は気づいているだろうか。二ヶ月もかけて、通いつめて、距離をつめて、やっと彼女と同じ列に座ることが出来たのは三日前のことだった。そしてこの日は、この一番近い席に二回目に座る日。今日彼女が読んでいるのは、坂口安吾。彼女がミステリ小説を好んで愛読していることを知ることが出来たのはこの二ヶ月の努力の賜物だ。ひとつぶんの席をあけて、先輩が座っている。本なんて読んでいられない。目は通す。が、ちらり、ちらり、と時折先輩の方を見る。名前は、なんだろう。どんな声で喋るんだろう。趣味は、好きなことは。聞けるほどの勇気は、俺にはなかった。ふいに、動いた先輩を盗み見る。垂れてきた髪が邪魔だったようで、その白い手で黒髪をすくう。耳にかける。小さなあくびをする。その3秒にも満たない動作が、俺の心を射抜く。好きな人のためにここまでして、ストーカーのように見張って、俺は変態か。読んでもいない本をしまって、代わりに現代文の問題集を取り出す。


「…」

「…」


また、時計の秒針の音のみが築く世界。俺は集中して長文を解く。苦手な記述になって暫く悩んで、はあとため息を洩らしながら時計を見る。先程から30分ほど、長針が進んでいる。彼女はどうしているのかと思い、ちらりと視線を横にすると、彼女が、先輩が、じいっとこちらを見ていた。心臓が、止まるかと思った。黒い瞳で俺のことを見ている。初めて、見られている。…否、正確にはその目線は俺の手元へ向けられていたのだが。


「国語、苦手なの?」

ぷるぷるの唇から出た言葉に、俺の心臓は抉られそうだった。図書室だからと囁き声になるそれはとても綺麗で、澄んでいて、彼女の印象にぴったりなものだ。

「あ、ああ…はい」
「その問題集、私も持ってるの。よかったら、教えようか?」

「は…い」

その綺麗な声に、つまらない返答しかできない俺。心もとない俺の返答を聞くと、彼女は、わざわざその1個分空いた距離を縮めてくる。かたり、と控えめに椅子を引いて、俺の隣に座る。

「よく、ここにいるよね」

「ええ、」

「知ってるよ。…あ、その、見てたとか、そういうわけじゃあないんだけど」

見てたのは俺の方です。なんて言えない。ぐっと近づいた距離に、くらくらしそうだった。女性特有の甘い石鹸の香りに、心臓が痛くなる。先輩は俺のことを知っていた。先輩のために通っていた俺のことを、知っていた。耳にかけられた黒髪が、またひと房首元にかかる。丁寧に、解き方を説明してくれた。それはもう丁寧に。彼女が隣にいるという事だけで、頭がパンクしそうなのに、その上丁寧に指さしながら、教えてくれてる。

「わかりづらくて、ごめんね」

「いえ、その、わかりやすかったです」

正直、彼女の近くなった横顔を見ていて説明なんてほとんど頭に入ってこなかった。社交辞令じみた言葉にも、彼女はよかったと、嬉しそうに笑うのだった。

「ありがとうございました」

「そんなそんな、頭上げて赤葦くん…あ」

「え」

きいただろうか。彼女から発せられた俺の名前を。たしかに、言った。聞き間違えではない。彼女は図書室にいる俺の存在だけでなく、名前まで知っていたというのか。勢い余っていってしまった自分の発言に先輩は頬を赤くする。えっとえっと、となんてごまかそうか考えてるようで、可愛らしかった。

「あの、ごめんね。赤葦くん、その…有名だから」

「そう、なんですか」
「ごめんね、気持ち悪いよね」

「いえそんなことは、」

すこし早口になる彼女に、頬が緩む。「バレーがすごいの、聞いてるんだ」と、彼女がいう。ずっと頑張ってきたバレーが、こんなところでも役に立ってしまった。ただただ嬉しかった。照れた時のくせなのか、しきりに耳にかかっている髪の毛をもう一度かけようとする。そんな仕草も可愛くて、胸が高鳴る。「あと、その、木兎くん同じクラスで、よく話してるから」そう、だったのか。木兎さんと、同じクラス。知らないことばかりだった彼女が、この数分で一気に身近に感じられる。知っていることが、増えてゆく。

「先輩は、毎日図書室に?」

「うーん、まあ、大抵はいるかも」

「そうですか、じゃあ」

あしたも来ますね、というとわかりやすいほどびっくりして、照れた顔。ほとんど無意識に言った言葉が、頭の中で反芻して自分も照れてくる。「あ、うん、ありがとう…」なんて、照れながらいう彼女が愛しい。程よい暖房がついているこの空間で、ここはもはや俺と先輩だけの世界だった。小さくされている会話、内緒話をしているようで、照れくさい。ぶぶぶ、と携帯のバイブが聞こえ、先輩はゆっくりとした動作で携帯を見る。親の迎えが来た、らしい。ごめんね、話してくれてありがとう、と丁寧にお礼を言って、荷物を片付けて、帰ろうとする先輩。終わってしまう。明日も会いに行くが、今この時間が終わってしまう。名前も、聞いてないのに。
気がつくと、細い腕を掴んでいた。彼女も俺も、びっくりしていた。近くにいた名前も顔も知らない生徒が、ちらりとこちらを見る。そんなこと、気にしてられない。つかんでしまったものは仕方ない。言うことは、これだけ。


「先輩、名前、教えてください」



彼女はにっこりと笑って、「苗字名前です、よろしくね」と言うのだった。




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図書室をテーマにオムニバスできそうですね


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