どれほど経っただろうか、背中からの物音に名前は目を覚ます。がちゃがちゃと荒々しくドアノブを弄る音。一瞬、先程の犯人かと思ったが鍵をさしているようだったのでそうではないらしい。だとしたら、答えはひとつ。
「っ御剣、さん」
名前もまた荒々しくドアを開けてちょうどのタイミングで家に入ってきた御剣にダイブする。
寝ていたとはいえ先程まで絶望的な孤独感と不安感に苛まれていた名前は御剣怜侍が救世主のように思える。…デジャヴを感じる。
ぽす、と突進してきたモノに御剣は驚きながらも持ち前の体格の良さからか揺らぐなんてことは一切なく名前を優しく抱きとめる。
「苗字くん、無事だったか」
自分より頭一つ分をゆうに超える小さい位置にある名前の頭を、ぎこちないが優しく、できるだけ優しく撫で付ける。名前に外傷などは見受けられなかったため、被害がないことを確信し振り返ってドアノブを見つめる。自分の腰に巻きついている少女は離れようとしない。御剣は手を顎にやって考え耽る。
「(どうやら侵入はされていないようだな…ハンニンは誰なのだろうか。ドアノブに手をかけただけというのがアヤシイ…)」
実のところ、御剣怜侍は犯人の心当たりが無いわけではなかった。自分は検事。しかも、一時期までは無敗と言われてきた男だ。自分が担当した事件の中に無罪の人がたとえ居ようとも、自分は尽く有罪にしてきたのだ。…もっとも、その手段は数年前より辞めたのだが。などと御剣は考える。つまり、御剣怜侍には敵が多い。今はそうでなくとも、昔の彼を憎む人はいないとも限らないだろう。犯人はおそらくその中の誰か…御剣はそこまで推理した。
「御剣さん…」
名前の瞳がまだ不安そうに揺らぐ。彼女は高校生だ。ごく、普通の。こんな非日常的な経験はないだろう。また奇しくも、このように自分の感情をここまで吐露した彼女を見るのは、御剣にとっては初めてのことだった。
「シンパイはいらない。苗字くん、ハンニンの顔は見たかね?」
小さくうん、と頷く彼女にうム…と御剣も反応する。「でも、よく見えなかったの」と、本当に申し訳なさそうにする彼女に胸を打たれる。おそらく自分のせいで他人をこんな目に、と思うのは当然だろうが、御剣はそれ以上に自分のせいでこの少女に恐怖を植え付けてしまったことがなによりも気がかりだった。他者には沸かない、なにか他の感情を感じた。彼女に対する情は、思いのほか大きくなっていたのだ。
「案ずるな、糸鋸刑事には連絡しておく。最悪の事態をソウテイして、さらに防犯は強化することにしよう」
そう言って御剣は名前の髪をひとなでし、彼女を落ち着かせるためリビングへ導いた。ソファに座らせると紅茶を淹れる準備に取り掛かる。名前はその間もぼうっとどこかを見つめていた。
「落ち着いたかね」
ことん、と淹れたての紅茶をふたつ分置き、名前を見つめる。名前ははっとしたように慌てて御剣の方を見た。
「ごめんなさい、もう…大丈夫」
とてもそのようには思えないのだが、と御剣は思う。どうにも、最近は厄介が多い。彼女に関する厄介が。グウゼンではあるだろうが、今回の件は少し気になる、頭を悩ませる。ヒビを深くする御剣をみて名前は「部屋を間違えたのかも、」と言うも聞き入れる様子はない。部屋を間違えたというには不審な点が多すぎる。なんとなく居づらいような空気の中、救世主と言えるべき人物が荒々しく家に侵入してきた。
「名前ちゃん!大丈夫ッスか?!」
連絡してからものの数十分というのに、こういう時だけは行動が早い男であった。名前もちろん驚いたが、すぐに薄く笑って「大丈夫」と言った。このあまりにも早い到着に御剣は戸惑ったが、すぐにポーカーフェイス。しまいには、静かにしたまえ糸鋸刑事と彼を一蹴する始末だ。
「うう…すまねッス」
「ところで、ハンニンの目星はついてるッス?」
しゅんと項垂れるもすぐに眉を吊り上げて刑事の顔をする糸鋸。名前はこんなときでも、糸鋸刑事のころころかわる表情を見て密かに楽しんでいた。
「うぐっ…それは、まだだ」
「まあ、御剣検事はテキが多いッスからね!」
「…糸鋸刑事、黙りたまえ」
「うう、すまねッス…」
「来月からソーメンが食べられるかどうか、カクゴしておくのだな」
「ついにソーメンすら食べられないッス…」
この日常的に広げられるテンポのいい会話に、名前は先程の恐怖も忘れくすりと笑った。それをちらりと見やった御剣も幾分穏やかな表情をして名前を見つめる。どうやら、彼女の様子は本当に大丈夫になったらしい。糸鋸刑事も、彼女の恐怖心をまた煽ってはいけないと思ったのかそれ以降は話題には出さず、ふたりと楽しく笑談を始める。束の間の平穏、というべきか、とても穏やかな時間が過ぎた。彼女自身、まだ多少不安を感じてはいたが御剣や糸鋸を信じているらしくきっと平気だと考え始めていた。犯人は気になったが、この少ない情報ではとくていできるわけもなく一時見送りといった形になって、この不可解な事件は幕を閉じるのである。
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