とても暗く、永く、寂しい空間にただ一人落ちていく夢を見た。自然と怖くはなくて、落ちているのに何となく漂っているような感覚だった。左右の視界の端にはお父さんお母さんの顔やマキちゃんと遊んだ記憶、好きだったテレビドラマなんかが一昔前の映画のフィルムのように流れていた。それはすぐに夢だと気づいたが、その夢は覚めることは無くただ一向に落ちていくだけだった。遠くの方で、なにか聞こえる。わたしの名前を呼ぶ、誰かの声。



次第に視界がチカチカとしてきて、自分の瞳がいま瞼の裏を見ているのだと気づいた。また、それと同時に頬に感じる違和感。すうっと眩しさを感じながら目を開くと、目の前に男の顔。


「っ?!」


わたしは飛び起きる。頬に触れていた男の手を払い除けて、背中側にある出窓の下の壁まで後ずさった。後頭部が壁にぶつかるのも気にしてはいられない。いつのまに、この人が。どれくらい寝ていたのか、見当もつかない。目覚めたばかりの頭では、夢でうっすら聞こえていたわたしの名前を呼ぶ声は彼のもので、頬に感じた違和感も彼のせいであるということのみだった。


「……」

しばらく、無言の間が続く。あちらもわたしが起きた時こうなると踏んでいたのだろう、最初の方に見せた哀しそうな顔ではなく、ただ、その黒いふたつの眼でわたしの顔を見つめるのだった。そこには何の感情も伺えない、限りなく無に近いカオだった。
その表情に、わたしはぞっとする。かたかたと奥歯がなるのを必死に抑える。再度呼吸が浅くなり、動悸がした。その様子を知ってか知らずか、暫くわたしを見つめたあと彼は立ち上がる。一体、何をしに来たのか。彼はそのままわたしの元まで足を運び、わたしの頭上に目をやる。わたしの頭上には、そう


「…逃げようとしたのか?」


しまった。先程から吹いている風。出窓は開いており、その下で寝ていたわたし。誰がどう見ても逃げようと考えたということは明白だった。こいつを、刺激してしまった。彼はじいっと外を見つめ、ゆっくりとわたしに向き直る。黒々した双方の瞳が、わたしを射貫く。無に近い表情が、怒りや憤り、そのようなモノを含む表情になっていることに気づくのも明白だった。今度こそかちかちと奥歯がなった。いよいよ呼吸が浅く、過呼吸のように酸素が喉を切る。


「あ…ぁ…」

なにをいったらいいのか、わからない。何をされるかわからないので迂闊にはい、と言えるわけはない。しかし、状況から判断するに聞くまでもなく逃げようとした。事実だ。彼の顔以外のものが、ぐにゃりと歪む。耳鳴りが止まず、脂汗も出てきた。確実に、寿命が縮んでいる。
彼は、そんなわたしをまた一瞥して、わたしの両膝の裏と背中に腕を回す。途端に感じるのは浮遊感、そして、幾分高くなったカーペット。所謂、お姫様抱っこというやつだった。がちがちに固まったわたしを彼は優しく備え付けのベッドの上に下ろす。彼の不可解な行動に、ぱちぱちと瞬きをした。


「窓なんか、危ないだろ」


そういってベッドにあった薄手の布団を、寒くないようにとわたしの肩にかける。怒っているのか、わからなかった。窓が危ないなんて、意味がわからない。落ちるかもしれないことに対してのそれなんだろうが、まず言うべきことはそれなのか。そして彼はわたしの頬を軽く撫でた。その目はわたしを心配しているようで、ますます意味がわからない。謎が多すぎて、こわい。そこで、彼ははっと気づいたようにわたしの手足を拘束していた縄を外していった。


「ごめん、名前ちゃん、痛かっただろ」

縛っていた箇所をいたわるように、優しく優しく擦られる。申し訳なさそうに。よくわからないが、なぜかわたしはこの室内での自由は取り戻せたらしい。どうせならもう少し早くに自由になりたかった。ごめん、ごめんと呟く彼をわたしは見つめる。

しばらくさすっていた男の手が、不意に離れた。名残惜しそうに離れていく手が、どうにも心細そうで、ぐっと息をのむ。ふらり、と立ち上がった彼をまた見つめる。どうやら、やはり彼はすぐには殺さないらしい。むしろ、わたしに生きていてほしいように思える。所謂、監禁というやつなのだろうか。どちらにせよ事実はひとつ。今の状況ではわたしの命は危険にさらされていない、らしい。そうなると当然わたしにも逃げるチャンスがあるかもしれない。ガタイのいい彼に力技では無理だ、絶対に無理だ。ならばどうする?出窓から飛び降りようにも、手足が自由であっても大怪我しそうな高さだった。窓も駄目だ。…と、すると、私はいったい。
至った考えは到底やりたくないことだった。当然だ、彼は腐っても犯罪者。しかし、わたしの無い脳ではこれしか思い浮かばないのだ。

踵を返してドアに向かおうとする彼の服の裾を掴む。彼はびっくりしたように目を丸くしてわたしを見つめている。ああいやだ、絶対に。こんなこと。怖いけれど、でも、他にはない。





「名前を、…教えてください」



わたしは、彼に取り入るしか、家に帰るすべはないのだろうか。







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