さて、運命的、というには程遠く、もはや怪奇的な出会いを果たしたわたしと誘拐犯であるが、さきほどわたしが何を思ったか手に触れた途端、目に見えて誘拐犯の表情は明るくなった。何なんだ、本当に。


「名前、ちゃん」

それからは彼はただわたしの手を握って、このように名前ちゃん名前ちゃんとわたしの名前をただ呟くのだった。子どものように。どうしてわたしの名前を知っているのか。この人、本当に誘拐犯なのか。そんなことまで疑い出したのは無理もない…はず


「あの、…」

とりあえず、ここがどこだか知りたい。わたしは誘拐されたのか。もしかしたら、帰る途中に倒れたり何たりして、この人が介抱してくれたとかそんな…そんなことはないだろうけれど。勇気を出して声を絞り出す。わたしの名前を言わなくなった男性は、心配そうな目つきで私の顔色を伺う。


「ここは、何処、ですか」

何をされるかわからない。情緒不安定な人で、あと数秒もしたらいきなり襲いかかったりするのかも…もうわたしのこの男性に対する印象はそれはもう酷かった。びくびく、と喉がなりそうだった。こんなことを聞いて、何にもならないのにな。誘拐犯は、ひどく驚き、とても言いづらそうに顔を歪める。その反応だけでわかることはひとつ。ここは、わたしには言えない、わたしの知らない場所。

「そ、れは…ごめん」

彼はもう一度ごめん、と謝るとわたしから手を離して立ち上がる。くるり、と踵を返して来た道を戻ろうとする。なにをしに、いくの。どこに、いくの。
彼はそのままわたしの方を見ず、明るいドアの向こう側へ行ってしまった。また、ひとりぼっち。いくら誘拐犯とはいえ、彼は丸腰だった。先程の行動を見るに、すぐにわたしを殺すというわけでも、ないらしい。また薄暗い部屋に取り残された。まだ、人がいてくれた方が良かった。どうしようもない虚無感。静寂が、わたしの身を包む。その殺される恐怖とはまた違う恐怖に、わたしは縛られた手の先がとても冷たく、自分のものじゃないような感じがしていた。



しばらくして、またがちゃりとドアが開く音が聞こえた。彼だ。
手には、摩り下ろしりんご?どうやら食料、を持ってきたらしい。やはり、彼はわたしをすぐには殺さない。彼はそのでかい図体に、小さく花が描いてある可愛らしい食器に入っているりんごとこれまた花が描かれている小さかったスプーンを持ってやってきた。あまりに不釣り合いなそれに、唖然としてしまった。すっともといた場所に座り込み、りんごを掬い、わたしの口元に…え?
さて、ここでわたしの状況を考える。まずこれは、誘拐、拉致、監禁。わたしは拘束され、自由が効かない。もちろん、手も。つまり、この誘拐犯はその自らの手からわたしに、このりんごを咀嚼させようというのだ。わたしは、ここに来て困惑しかしていない。最初の恐怖より、困惑だ。

「……」
ぺこり、とちいさく会釈だけして、そのりんごを咀嚼した。咀嚼してやった。仮にも犯人相手に羞恥心がどうのなんて言ってられない、そう判断したのだ。それに、お腹は空いている。人間誰しも欲には勝てないのである。…あれ、まてよ、犯人たるもの、これに毒を盛るなんて容易では?なんてことを一瞬考えたが、それは杞憂に終わった。
なぜなら、彼の顔がとても嬉しそうだったからだ。どうして、そんな顔をするの。わたしを攫ったのは、何が目的?聞きたいことは山ほどあった。でも聞けなかった。いくら今は殺されないとはいえ、無駄に刺激して怒らせてしまっては意味が無い。慎重に、慎重にいくぞ、わたし。


「寒い、?」

「痛くない?」


気を良くしたのかあれよこれよとわたしを気にかけてくれる誘拐犯さん。欲をいうならばここから出して欲しい。なんて、叶うわけもない。とにかくわたしは今を生きることに、全身全霊をかけるのだ。生きるために、わたしがするべきこと。最終目標は危険を承知で、いつかここから逃げ出すこと。これを達成するためには彼を…どんな手を使ってでも、彼を欺かねば。仕方ない。命には変えられない。わたしは決意した。この状況を打開すると。





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