一寸先は闇、ということわざはおそらく聞いたことがある人も多いだろう。華の大学生、うら若き乙女、いちばん早く過ぎるといわれる20代に突入したばかりのわたしは、まさに今そのことわざを実感している。薄暗い部屋にひとり、わたしはいる。おかしい。明らかにおかしい。何処なのだ、ここは。周りを見渡すと、全く知らない場所。薄暗くて、すこし寒い。手足は縛られ、動けない状態だ。…声が出せるだけましなのだろう。おかしい、わたしは何故こんなところに。

「っい…」

思い出そうとするとずきり、と後頭部が傷んだ。え、わたし、殴られたの?落ち着こう、とりあえず、冷静になって思い出すんだ。最後の記憶は、大学の友だちと夜までショッピングを楽しんだことだ。そこで、気に入った服や小物を買って、ご飯を食べて、マキちゃんと別れて、マンションに帰る途中…だった、きがする。もうマンションは目の前で、それで、どうしたっけ。
途端、ぞわり、と鳥肌が立った。これは、冷静に考えなくても…誘拐。その二文字にわたしの思考は完全にストップする。

「…ちょ、だ、だれか」

ドアはもちろん閉じられているし窓も空いてない。外部の誰かに、わたしの小さな声は届くはずがなかった。どうしよう、どうする。通報…なのか、携帯は、な、ない。バッグごとない。うわあどうしよう。世間ではこれを詰んだというのか。もうどうにもパニックに陥ってしまってどうしようもない。動けやしないし携帯もない。喉の奥になにかがあるように、声が出ない。恐怖と絶望しかない。ぐるぐる、と深く暗く冷たい沼に呑まれるようだった。

「…っえ」

ぱたぱたと控え目な足音。まずい、きっと犯人だ。どうしよう、死んだフリ…なんて効かないよね。ああまずい。どうしてこんなことに。神様、わたしはなにか悪いことをしたのですか。

がちゃ、と無造作にドアが開かれる。ああ終わった。これから殺されるんだわたし。ぎゅっと目を固くつぶっていると、犯人さんが近づいてくる気配がした。

「起きたんだね」

低くも高くもなく、でも、優しそうな男性の声。すぐに暴力をふられるか、暴言を吐かれるだろうと予想していたわたしは拍子抜けした。固くつぶった目をゆっくりと開けて声の主を見上げる。
その男は本当に優しそうな顔をしていた。ガタイこそいいものの、わたしを見つめる大きな目とか、口角の上がった親しみやすそうな口元だとか、この人、本当に誘拐犯…?
そこまで考えてわたしは改める。いやいや、こういういい人そうな見た目の人ほど、こうやって、犯罪を犯すのかもしれない…こうやって。

「あ、の…」

やはり震えた声しか出なかった。この笑顔のウラで、何をするかわからない。きっと、今に後ろに回した手に持った包丁やらを振り翳すんだろう。悪い妄想はいくらだって捗る。涙が出た。いやだ、殺されたくない。
その男性は涙を流すわたしをみてぎょっとした。あわあわと両手が空をかく。…この人、何も持っていない。その安心からか、わたしの目からはさらに涙が溢れた。男の人はどうしたものかと頬を掻いて、あろうことか、私の身体をぎゅっと抱きしめた。

「っえ、」

ぎゅううっと、効果音がなるくらいに。痛い。苦しい。お陰で涙も引っ込んだ。なんで、どうして。殺すんじゃ、ないの。

「ご、ごめん…怖がらないで」

まったくもって無理な話である。何を言っているんだこの誘拐犯は。わたしを、拉致っておいて、怖がらないでなんて、ばかじゃないの。


「やっ、だ」

さらに強くなった彼の腕の力に、思わずやだと声が漏れてしまった。しまった。反抗、してしまった。はっと気づいたが遅い。ばっと両肩を掴まれ離される。彼の目は大きく開いている。わたしに反抗されて、驚いている。…些細な反抗だったけれど、見逃しはしないだろう。最悪の想定しかできない、殺される、のか。は、は、と短く肩で息をする。それだけで苦しい。じっと見てくる彼の目に見つめられて、わたしもその目を離すことができない。緊迫した空気感にもう押し潰されそうだ。じわじわ、と新たなる恐怖がわたしの足の先から侵食していく。がんがんと頭痛がする中、その男の人の目が、悲痛に歪んだ。今にも泣き出しそうな顔をした。いつの間にか力が抜け、重くなった彼の腕がついにだらりとわたしの肩から離される。どうしたと、いうのだ。

「…お願いだ、」

俯いた彼から、ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。な、泣かれた、誘拐犯を、泣かせた…?
小さく、小さくそれは呟かれた。



「嫌いに、ならないでくれ」



わたしは、当然困惑する。誘拐された被害者が、誘拐した加害者を嫌いにならないなんて、そんなわけ、あるはずがない。先ほどの怖がらないでというお願いがちゃっちく聞こえるくらい、それは無理な話だった。でも、たしかに聞こえた。涙声の中で、小さく、とても小さく、聞こえた。そろり、とまた様子を伺うと変わりなく俯いている彼の姿。いい大人が、ぐすぐすとそれはもう情けない姿で泣いている、ように見える。一体なんだというのだ。一体、わたしが何をしたのだというのだ。
ひとりの女子大生の目の前で、小さくなっている男性。不可解すぎるこの光景。だらりとカーペットに置かれた大きな手が、時折ふるふると震えていた。どうしよう、わたしは、どうしたら。仮にもこの人は誘拐犯だというのに。どうやらわたしはこの異常すぎる空間の中で正常な判断行動が出来なくなっていたらしい。気づいたら、その大きくて温かい手の甲に、そっと、自分の手を重ねていた。ばっと顔を上げる誘拐犯。ああもう、どうにでもなれ。わたしは意を決して言葉を紡ぐ。


「あの、泣かないで」



1.一寸先は闇





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