「…よし、」

8月に入ってすぐのころ、わたしがこの日手にしていたのは夏休みの課題だ。基本的に嫌なことは先にやっておきたいタイプなので、例に漏れず今年も課題の方は全て終わらせた。残りは、絵の方だ。学校から課せられた課題は一つ、50枚のクロッキーだ。わたしは美術しか取り柄がないし、専攻の学科なのだからそれを考えると今年の課題はかなり少ない。クロッキーとは、モチーフを出来るだけ簡潔に、短時間で描くことだ。スケッチと近いけれどそれよりもっと短い時間、数十分ほどで仕上げるものなので、50枚といえどわりとすぐに終わる気がする。問題は、そのモチーフをなににするかだ。
特にわたしはこれといって描きたいモチーフがあるわけではなかった。普段描くときはモチーフを決めるというよりも、直感と感情で描いているし、学校で描くものは大抵モチーフを先生が選んでくれている。つまるところ、自分の描きたいモチーフを決めることがこの課題の難関だった。もちろんバラバラのものを描いてもいいのだが、一貫性があった方が評価は上がる。手当たり次第というわけにはいかないのだ。
とはいえ、なにを描けばいいのかわたしにはさっぱりわからなかった。モチーフで多いのは、手、動物、植物や建物。そして、人。どうせなら描きたいものを、それはもちろんわかっているんだけど…。


「はあぁ…」

クロッキー帳を片手に項垂れる。わたしが描きたいモチーフは、なんだろう。ぐるりと身の回りにあるものを見渡す。観葉植物、描くのは楽しいけれど、これで50枚は厳しい気がする。ソファなんかもそうだ。あとは、チェスの駒。御剣さんの趣味らしく、駒だけが大切そうに飾ってある。あの艶やかな質感を描くのは楽しそうだし、組み合わせれば50枚はすぐにいけそうだ。他には揺れるカーテンに窓ガラス、透明なグラス。モチーフになり得るものはたくさんあるし、これなら描けそうだというものもちょこちょこある。けれど、胸がときめかないのはなんでだろう。
やるからには中途半端な出来にしたくはない。自分の胸がときめくようなものを描ききりたい。でもそんな都合のいいモチーフなんて、あるのかなあ。
ふと、ソファに座って足を組みながら書類読む御剣さんが目に入った。
肘掛けに肘を置いて、指先は御剣さんの額を支えている。珍しくメガネをかけて書類に睨みつける目線。足を組んだときのうつくしさ、少し前髪が顔にかかるあの感じ。
唐突に、形に残したくなってなにも考えずにシャーペンを走らせた。ほとんど無意識に近かった。あ、描きたい、と思えるあの感覚。残さなきゃという使命感に駆られるあの感覚。気がついたら最近の中で一番出来のいい人物クロッキーができあがっていた。…これだ。わたしの描きたいもの、わたしの胸をときめかせるモチーフ。

その日から、こっそりと御剣さんを描く日々が始まった。
朝、紅茶を淹れる綺麗な背筋。軽やかな手つき、少しずらした重心。
お風呂上がりですら整っている濡れた髪の毛、少し血気のついた頬、上等な寝着。
休日、イトノコさんからの電話に眉を顰めながら答える姿、携帯を持つ筋張った手。
腕を組む姿に、食事をする所作。観察すればするほど、わたしの描きたいものだらけだった。正直クロッキーなぞただの落書き程度に思っていたけれど、自分の描きたいものを描くというのがいかに有意義で成長できることなのか改めて感じた。今まではぽっかり穴が空いた状態で絵を描いていたのだと思う。御剣さんと出会ってから画風が大きく変わったと思う。これが一般的に吉と出るかはわからない。もしかしたら今までわたしの絵を買ってくれた人は離れたかもしれない。けれど、なによりこの空洞を埋めてくれる存在ができて、またそれを描くことができて、わたしは本当の意味で絵を好きになれたような気がした。気がつけば45枚。あと5枚で終わる。あと5枚しか、描けない。
残りの数枚の紙をぺらりといじり、その寂しさにはあとため息をつく。

「名前くん、」

「わ、」

急に後ろから声をかけられて驚いて、手に持っていたクロッキー帳をばさばさと落としてしまった。
見られたらまずいと思って拾おうとするも、御剣さんが拾う方が先だった。


「これは……私か?」

ああ、見られてしまった。こっそり描いていたのに、何十枚も自分の絵を描かれるなんて誰だっていい気はしないだろう。軽くプライバシーの侵害だ。どうしよう…と思いつつも御剣さんがクロッキー帳をめくる手は止まらない。ぺらり、ぺらりと紙が擦れる音だけが反響する。穴があったら入りたいとは、このことか。

「そ、その、課題で…ごめんなさい」
「なぜ謝る?」

「だって、勝手にこそこそ描いてて」

「まったく…謝る必要などないな。そうか、キミには私がこのように見えているのか」

御剣さんの細長い指先が、するりと紙を撫ぜる。どれもこれも数十分で描いたとは思えない良い作品だ。こんなわたしでも自慢できそうなくらい。御剣さんはわたしが描いたものを、慈しみのような、愛おしさ溢れた目線を向けていた。わたしが描いたものに向けられたはずなのに、なぜかそれがわたし自身に向けられたように感じられて、ばくばくと心臓がうるさく音を立てた。じっくりと見たあと、御剣さんはクロッキー帳を丁寧に手渡して「これからも励むように」と言い残してお仕事へ行ってしまった。これは、公認されたということか。優しい御剣さんのことだから、きっと前もって伝えていても嫌だなどと言わなかったと思うが、それでもわたしの初めての作品を認められた気がして嬉しかった。ぽっかり空いた穴が暖かなもので満たされて、ようやく完全になったわたしの初めての作品。それを初めて見たのが御剣さんで、初めて認めてくれたのも御剣さん。こんなにも嬉しいことは、ほかにあるのだろうか。手渡されたクロッキー帳をぎゅっと胸に抱いて、どうしようもない幸福感を噛み締めた。


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