「糸鋸刑事、不審な人物を特定したというのは本当かね」


数日経ったある日、部下から一本と電話を受け取った御剣怜侍は取調べ室の一室まで足を運んでいた。このときの不審な人物とは無論、例の勇盟大学女子大生行方不明事件の重要参考人である。現場付近を何度も行き来し、女子高生が行方不明になってからはぱったりと姿を消した青のスーツの男。極めて怪しい人物だ。部下の吉報を前に状況を尋ねる。

「今、取調べ室Aで待ってもらってるッス。まだ自分もどんなヤツか見てないッスけど…」
「成る程、私が直に取り調べよう。糸鋸刑事も入室してもらえるだろうか」

勿論ッス!と声を上げ糸鋸は御剣の後に続く。御剣は一呼吸を置く。このひんやりとした無機質なドアの向こうに、犯人かもしれない男がいる。ガタイのいい男との情報だ、万が一にも何か襲われないように気を引き締めていかねばならない。これで事件が早期解決に向かえば良いのだが。すっと姿勢を正して重たい鉄骨のドアを開く。
ゆっくりと開けられたドアの先には背を向けて座る男の姿。がっしりとした躯に青の背広を纏い、ぴっちりと固められた黒い髪。御剣は、時が止まったように静止した。その姿には嫌に見覚えがあった。どくん、どくんと心臓が脈を打つ。血流が非常に良くなっているのにも関わらず、手の指先や革靴の中の足先は氷の海に入ったかのように冷たくなるのを感じた。自分の中の記憶が一瞬にしてフラッシュバックする。何度も見たあの背中、忘れるわけがない。まさか、そんなことが、あの男に限ってあるわけがない。後ろの糸鋸圭介も、ごくりと息を呑むのがわかった。

御剣らに気がついた目の前の男は、ゆっくりと振り返る。頼む、振り返るな。と刹那的に御剣怜侍は祈った。ぎゅっと目を背ける。恐る恐る、といったように御剣は視線を下から上げる………違う、よく見ると成歩堂とは違う男性だ。個性的な眉毛はまったくもって一致しないし、背丈も成歩堂よりやや低い。柄にもなく、安堵した。じわりじわりと滲んでいた冷や汗がすっと引いていく。浅くなる呼吸も徐々に整う。凝視し無言の御剣に、目の前の男は不安げに眉を下げこちらを窺っている。冷静になれば成歩堂龍一には見えないというのに一瞬でも御剣の脳内をよぎったのは、たしかに心のどこかで可能性を考えていたからなのかもしれない。勇盟大学、青のスーツ、ガタイのいい男性。一般的に見ればそのような人物はそこかしこにいるわけだが、御剣怜侍の知るところには彼しかいなかったのだ。成歩堂龍一ではない、ただそれだけの事実に己のやるべきことを忘れそうだった。気を引き締めねば、彼が件の犯人なのかもしれないのだから。すっと目を閉じて凝視をやめる。また眼が開かれたとき、御剣は息を吹き返したかのように冷たく鋭い視線を男性に向けた。

「検事の、御剣怜侍だ。こちらは糸鋸刑事。まずは取り調べに協力してくれたこと感謝する」

「は、はい……あの、僕はなにを」

「一ヶ月半ほど前に勇盟大学の女子大生が行方不明になっているのをご存じだろうか」

全くもってわからない、といった表情を浮かべる男性に事の顛末を説明する。事件のあらまし、大学付近でよく見かけた男性がぱったりと姿を見せなくなったこと。そしてその男性が極めて怪しく、目の前のあなた本人であること。それを話すと男性の顔色はさっと変わって、慌てて否定を始める。たしかに大学付近を毎日通っていたが、取引先がその辺りにあるからだという。姿を見せなくなったのは、その取引を断られたため行く必要がなくなったからであると。必死に弁解する男に、嘘をついている様子は全くなかった。つまりすべては杞憂だったというわけだ。捜査は振り出し。これがいいことなのか悪いことなのかは定かではない。自分の思い過ごしだったという安心と、解決から遠のいたという悵然。疑わしい点が他には無かったために、早々に取り調べを切り上げて帰宅してもらった。
誰もいなくなった取調べ室で、ふうとため息をつく。


「お疲れ様ッス、あの男じゃあなさそうッスね…」
「ああ、そのようだ」

「それにしても、」

後に続く言葉を、御剣は容易に想像できた。口籠る糸鋸圭介を見遣る。

「…正直なところ、私も一瞬でもそうではないかと疑った」

「そう、ッスよね…自分も、その」


考えることは二人とも同じであった。部下である糸鋸圭介も、御剣と同じように考えていたのだ。御剣は片手で額を抑える。どうやら、疲れているようだ。よもや一瞬でも自分の友を疑うなどと、私としたことが許しがたい。あの男が、容疑者にあがるわけがない、それは一番この私が知っているはずなのに。兎にも角にもゼロからの捜査になってしまったことは悔やまれる。御剣と糸鋸は、顔を合わせ今後の捜査方針を練り直すこととなる。


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