思い返せば、ぼくの初恋は高校生のときだったと思う。
たしかに言葉のとおり身を焦がすような恋をしたのは大学生になってからだけど。あの出来事も強烈だった。今では思い出したくもない記憶だけど、まあ最終的には落ち着いたし消えない過去として隅っこに追いやるのが良いと思う。それよりも前、ぼくが高校二年生の春、たしかにぼくは初めて人に恋をしたんだと思う。まさかこの歳になって何年も何年もぼくの心の中に留まっているなんて。ぼくはずっとあの子に囚われているのかもしれない。



ぼくが初恋の人、苗字名前さんに出会ったのは10年も前の高校二年生、ちょうどクラス替えが行われて新しい席へ座ったときだった。ぼくはあのとき少し早めに着席していて、代わる代わる入ってくる新しいクラスメイトをぼうっと眺めていたと思う。一年の頃からの友人が何人かクラスに入ってくる中、最後の方に女生徒とともに教室に入ってきたのが件の少女、苗字名前さんだった。さらりと黒髪を伸ばして友達と笑い合いながら教室に入る彼女を見て目を奪われた。ぼくは高校生になってもそこまで愛だの恋だのに興味はなくて、他の人よりも疎い方だったと思う。だからこそ、ぼくのなかで異彩な存在感を出す苗字さんにひどく戸惑った。苗字さんはぼくの斜め前の席に座って、ぴしっと背筋を伸ばして新しい担任を待った。ほどなくして担任が入ってきて、ながながとこれからの1年間について語り始めていたけれどぼくは斜め前の苗字さんにしか目がいかなかった。今思えば、完全に一目惚れというやつだ。…ぼくは一目惚れしやすいタイプなんだろうか。先生のつまらない話も絶えず姿勢を崩さずにじっと聞いている。その伸びた背筋と、艶やかな黒髪、少しだけ見える長いまつ毛を眺めながらぼくの新クラス初日が終わりを告げた。
再三になるが、あの頃のぼくは恋愛について特段詳しいわけではなかった。故に、その時の感情が恋だったのかもわからないくらいの幼い学生だ。ぼくのなかで苗字さんはなぜか目を引くクラスメイト、という立ち位置でずっと回っていた。直接話すことはない、ぼくはぼくで新しい友達とそれなりに仲良くやっていたし、斜め前の彼女も同じように同性の友達に囲まれて日々を過ごしていた。その数十センチの距離感で、ぼくらは学生時代を過ごした。とくに関わりがあるわけでもなく、でもちょっとした業務連絡をするときには果てしないほど心臓がばくばくしていた。これを今まで誰かに言ったことはない。ぼくのなかでこれは恋と認識していなかったし、なによりぼくの友人がその苗字さんに想いを寄せていたから、話すべきではないと思った。

新しいクラスに慣れてきた頃、その友人が苗字さんに告白をした。校舎裏、ぼくらに背中を押されながら苗字さんのもとへ行くのを、ぼくはあのときどういう気持ちで見ていたのだろう。結果を直接聞くことはなかったけれど、次の日2人が一緒に登校してきたのを見て悟った。ああ、うまくいったのだと。そのときは、嬉しいけれど胸の奥に何かがつっかえるような感覚がした。でもそれは無視をした。仲の良い友人を祝うことに専念したのだ。でもそこからの記憶はひどく曖昧だ。無意識に心をシャットアウトしたのかもしれない。次にぼくの記憶があるのは、夕暮れの指す放課後、忘れ物を取りにきたぼくが教室に入ると、教室の窓を開け放って誰もいない校庭を見つめる苗字さんの姿だ。あのときも、ぼくの心臓は痛いくらい脈打ってたと思う。くるりと振り向いた苗字さんがぼくをみて軽く笑う。どんな会話をしたのかなんてあんまりわからないけれど、たしかその頃には友人と苗字さんは別れていたと思う。ただ覚えてるのは一言だけ。「わたし、成歩堂くんのことが好きだったんだよ」



恋愛のれの字も知らないぼくは、一瞬言葉の意味がわからずに静止した。それを見て、苗字さんは悲しそうにまた笑ってぼくの横を通り過ぎて教室を去っていってしまった。なぜだか苗字さんが泣いてるように思えた。ぼくは忘れ物のことなんかすっかり頭から消えて、ぼうっとする頭を抱えて家路についた。しばらく経って、ぼくはあのとき告白をされたのだと理解した。苗字さんは、ぼくの友人が好きだったのではないのか、好きだったとは、何なのか。考えることが多くて、多すぎて嫌になって寝た。
次の日、苗字さんが転校したと知らされた。それは大きな衝撃だった。あまりにも突然で、クラスメイトも知らされていなかったのか驚きと悲しみの声。ぼくだってそうだった。人生で初めての、告白をされたのに、当の本人がすっかり消えてしまったのだ。あのとき悲しそうに笑ったのは、もういなくなるからだったのか。どうして最後に、ぼくにあんなことを言ったんだろう。答えは出ない。ぼくと苗字さんの話は、これでおしまい。あれからぼくもいろんな経験をして、もう10年も経ってしまった。今でもふと思い出す、苗字さんは、今どこにいるのか。

「なるほどくん、なに考えてるの?」

真宵ちゃんが横から話しかける。その明るい声で現実に引き戻された。少し間をおいて真宵ちゃんになんでもないさと答える。その曖昧さに真宵ちゃんが頬を膨らませる。昔のことだ、今さら知る由もない。ただ初めて恋をしたあの青臭い青春とも言えない学生時代に想いを馳せる歳になったということだ。ぼくももうすっかり大人になってしまった。今はこの法律事務所を何とかやっていけてるけれど、今後のぼくはどうなるんだろう。この歳になると周りは徐々に結婚し始める。ぼくもそのうちそういうことになるのだろうか、もしそうなら、ぼくの横に立つのは、


からんからん


めったに開けられない事務所の扉が開く音がした。真宵ちゃんが、「依頼人だ!」と声を上げて駆け寄る。また、殺人事件とかだったら嫌だなあと思いながら振り返る。
そこには、どことなく見覚えのある綺麗な女性が立っていた。黒い髪を胸まで伸ばして、ぴしっと背筋を伸ばしている。ぼくは普段あまり女性を綺麗だと言わないが、口をついて出てきそうなくらいにはうつくしい人だ。ご用件は、と聞こうとすると鈴のような声がひとつ、聞こえた。

「成歩堂くん、お久しぶり。覚えてるかな」


そうやって軽く、どこか悲しげに笑う女性に、あのときの少女の顔が重なった。長いまつ毛に、ぼくは確かに見覚えがあった。いや、見覚えがありすぎた。10年という空白があったにもかかわらず、鮮明に思い出される彼女の顔。それは、まごうことなきあのころの思い出の少女、苗字名前さんだった。真宵ちゃんが不思議そうに彼女とぼくの顔を見比べる。お知り合い?という言葉に、「ああ、ぼくの初恋の人だよ」と言いそうになった。返事の代わりに頷く。それに苗字さんは、ありったけの笑顔で返した。ぼくのことを何年も捉えた16歳の少女、ぼくの心の中にずっと居座った少女。成長した彼女が、目の前に立っている。あの言葉の真意を聞かなければ。ああそうか、これは、ぼくの初恋の続きなのか。


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