「はあ……」


7月も中旬、もうすぐ夏休みに入ろうかという頃、わたしの目の前に広がるのは大量の教科書とノート。…そう、夏休み前の定期考査だ。真宵ちゃんと遊んで楽しい思い出を作ったのももう遠い記憶に感じる。到底理解できない単語をまじまじと見ながら首を傾げる。勉強は苦手ではないけれど、いかんせんここ最近はあまり学校に行くことがなかった。先生がプリントやノートをくれたから見てはいたものの、実際授業を聞いていたわけではないのだから当然わからないことのが多い。けれどきちんと卒業すると決めたわたしに逃げる選択肢はなかった。教科書を広げて考査範囲を眺めるものの、やっぱり浮かぶのははてなマーク。なすすべもなくこつんと額をテーブルに当てる。このままではまずい、この考査でいい点を取らないといよいよ留年の危機だ。絶望と焦りを感じながらテーブルの冷たい温度を感じていると、ことんと近くから音がした。重い頭を持ち上げて見ると真新しい水出し紅茶。そのまま目線を上にあげれば心配そうな顔をしながらわたしを見つめる御剣さんと目があった。


「名前くん、進捗はどうかね」
「みつるぎさん……」


わたしの顔と教科書やノートの山を交互に見て、もちろん芳しくないとわかったのか困ったように眉を下げた。お恥ずかしながら…とかぶりを振れば普段はかけていない眼鏡をかけて、まじまじと教科書を覗き込んできた。

「ほう、微積の問題か」

今開いているのは数学。微分積分なんて概念からもうわからない。もはや何がわからないのかもわからない始末だ。本当に留年が見えてきた。せっかく御剣さんの役に立ちたいと、せっかくこれからやりたいことができたのに。不甲斐ない自分に大きなため息しかでなかった。きっと御剣さんも失望している。俯いた顔を上げることができなくて指先をいじっていると、上から存外優しい声が降ってきた。

「私が…教えてあげよう」

「えっ」

そんな、悪いです。と言いかけたが、「留年されては私としても困るからな」と笑う御剣さんにもはや何も言えなかった。たしかにそうだ、お世話になっているのに恩を仇で返すわけにはいかない。お言葉に甘えてすすすっと教科書を横に差し出す。御剣さんはわたしの横に座って、じいっと問題を見つめる。やっぱり頭が良いのだろう、高校の問題をすらすらと解き方を教えてくれて本当わかりやすかった。ひとつひとつ、丁寧に説明してくれて、こんなわたしでもなんとか自力で解けるまでになってきた。すごい…御剣さん、何でもできる。わたしの手の横に一回りも二回りも大きい手が置かれる。御剣さん、手も大きいなあ。ちらり、と御剣さんを盗み見すると思いの外近い距離に顔があってどきりとした。そのまま御剣さんの顔を見つめる。男性にしては焼けていない肌に、高い鼻筋、切長の瞳に見慣れない眼鏡。綺麗に整えられた灰色がかった髪に、ふんわりと香る上品な香り。あまりにも整っていて、思わず息を呑んだ。本当に、綺麗な人だ。何の反応も示さなくなったわたしに気がついて、御剣さんもふとこちらを見つめる。綺麗な顔を間近で見たくて、思わず顔を近づけてしまっていたのだろう、御剣さんと目があったときには数センチほどの距離しかなかった。あ、綺麗。たった数秒、いや一瞬目があっただけなのに髪の毛と同じやや灰色がかった綺麗な目に見惚れてしまって動けない。そのビー玉のような瞳に触れたくてそっと手を伸ばしかけた。御剣さんも、あまりにも近い距離に驚いたのか目を見開いて静止する。そして勢いよく顔を離してがたがたっと音を立てて離れる。

「ム、す、すまない」
「え、いや…いえ…」

御剣さんの瞳に触れようと伸ばした手が宙をかく。はたと見た御剣さんの顔が、ぷいっと逸されてしまった。隙間から見えた耳がすごく紅に染まっていて、ようやく自分のしかけたことの恥ずかしさを理解した。まさか、触れようと自分から手を伸ばすなんて。まさか、もっと見たいと顔を近づけてしまうなんて。あまりにも突飛のないことをしてしまって、わたしの顔も熱くなった。そりゃ御剣さんもびっくりするだろう、悪いことをしてしまった。あわててすみませんと謝ると、そっぽを向いたまま構わないと言われた。御剣さんはごほんと咳払いをして、足早に紅茶を入れる。

「な、なにか他にもわからないところがあれば聞きたまえ」

かちゃかちゃと慌ただしく紅茶の準備をする御剣さんに、わたしも慌ててお手伝いをしようと御剣さんのそばまで駆け寄る。覗き込んだ御剣さんの顔は、やっぱり隠しきれないほど赤くなっていた。

「見ないでくれ…」

眉を下げて、今まで見たことないくらい動揺している御剣さんに、なぜか笑いが込み上げてきた。わたしも恥ずかしいと思ったし、わたしが悪いことをしたのはわかっているけれど、いつものポーカーフェイスが見る影もない。たまらずくすりと笑えば非常に嫌そうな顔をされた。


「笑うな、名前くん」
「すみません、ふふ」


ぽん、といつもよりやや乱暴に頭に手を乗せられ、テーブルに戻るように促される。気を取り直して勉強を進めるも、間近で見た御剣さんの顔が忘れられない。あのとき、手を伸ばしてどうしたかったんだろう。触れたい、ただそれだけを思ったような気がする。ただ近くで見たいというか、ただ近くにいたいというか。わたしの視界が御剣さんでいっぱいになればいいのにと思った。あの時の感情は、なんだろう。前に真宵ちゃんとはみちゃんに聞かれたことを思い出す。御剣さんのことをどう思っているか。それはやっぱり家族か愛かわたしにはわからないけれど、ただ近くにいたい、近くで御剣さんを見ていたいと、ただそれだけがわかった。
いけない、ひとまずはこの目の前の壁を乗り越えなくちゃ。そう思いわたしは考えを振り払って問題を解こうとシャーペンを走らせた。


top
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -