真宵ちゃんが、警察が動き出してるかもしれないと言ってきたのはついさっきのことだ。まあ、もうおおごとになってもいい頃合いだし、そこまで驚きはしなかった。けど、…相手がイトノコ刑事なら話は別だ。イトノコ刑事が動いてるということは半ば必然的にあの男も関与しているとみて良い。御剣怜侍、ぼくはその名を何回呼んだことだろう。ぼくが弁護士になろうと思ったのは御剣の存在があったからだ。幼いときの学級裁判でぼくのことを助けてくれたヒーロー、そして悪に染まりかけてしまったヒーロー。それを是正するべく、ぼくはこの金色のひまわりのバッジを手にした。あの御剣がなぜ。その思いでひたすら勉強に打ち込んだし、今までやってきた。まあ蓋を開ければなんてことない、御剣は昔から変わっていなかった。
もしかして、側からみればぼくもあのころの御剣のように見えているのだろうか。過去の無罪判決を勝ち取った依頼人からは、悪に染まりかけてしまったヒーローと思われるのだろう。否、染まりかけているわけじゃない、僕はもうすでに悪だ。ぼくは昔とは変わってしまったのだろう。または、もとからこれが本性だったか。

予想はしていたけど、ぼくはいつかイトノコ刑事と御剣と顔を合わせるときが来る。それは、あの裁判所の検事席と弁護士席ではない。検事席と、…被告人席。そのとき、いつもとは違う角度で顔を合わせる御剣にぼくは何を思うんだろう。後悔、懺悔、焦燥、憤怒、怨恨、憎悪。きっといろんな感情が津波みたいに押し寄せて、想像もつかないな。けれど目の前の子うさぎのような彼女を一目見るだけで、すべてが正しいように感じてしまうんだ。夜中に洗面台の前で己と向かう。久々に自分の顔を見たけれど、まあなんていうか、ひどい顔だ。以前より少し痩せた頬、顔色もやや悪いし何より目の生気が失われつつある。名前ちゃんを見ているときは自分でも高揚して、幸せな気持ちでいっぱいになるのに夜1人になるとふと我に帰る。ぼくが求めているのは、なんだろう。名前ちゃんを手中に収める、名前ちゃんと共に過ごす、名前ちゃんの、幸せ。2つは叶った。………じゃあ、名前ちゃんの幸せは?
ずきんすぎんと頭が痛む。名前ちゃんはぼくと一緒にいることを望んでいる。だってぼくと話してくれるし、ご飯を食べてくれるし、文句もいわずにあの世界で生きてくれている。でもそれは、いったい本当か。隅に追いやっていた感情が頭の中を目まぐるしく駆け巡る。いや、間違っていない、ぼくは何も間違っていないはずだ。余計な感情を潰すように拳を鏡に叩きつける。拳の痛みを感じれば感じるほど、ぼくの胸の奥の方の痛みがなくなる気がした。
ずきんずきんと今度は拳の痛みを感じながら、ぎゅっと握りすぎて血が通わなくなった冷たい掌を感じながら、顔を覆う。おかしくない、何もおかしくない。頭と手の甲の痛みがずきんずきんとこだまする。痛みが溶け合って、すっと冷静になれた気がした。…うん、大丈夫。ぼくはまだ、大丈夫だ。










「じゃあ名前ちゃん、行ってくるよ」


その次の日は日用品を買うべく久々に外に出た。ここ最近は名前ちゃんにつきっきりだったし、それはとてもしあわせなことだけどたまにはこうして外の空気を吸うのも良い。名前ちゃんには、吸わせてあげられないけど。スーパーへ行ってホームセンターへも寄った帰り、母校である勇盟大学の近くを通った。…懐かしいな、前までは毎日通った場所なのに、もうすっかり遠い存在だ。ここで名前ちゃんと出会った、とても思い出深い場所。少し足を止めて学舎を眺めていると、後ろからすみません、と高い声が聞こえた。


「この子、探してるんです」


聞き覚えのある声に振り向けば、名前ちゃんのとても仲のいい友人、マキさんがいた。 まだまだ外の気温は低くすっかり赤くなった手に持っているのは一枚の紙。ちらりと見えたその紙には、ぼくのいとしい名前ちゃんが写っていた。そうか、もうここまで捜索されて当然だな。思いがけない人物に隙を見せないように平常を保つ。ここで怪しまれては、御剣と裁判所で再開するのもいよいよ時間の問題になってしまう。差し出された紙切れを見つめる。ああ、これはあの日のショッピングで2人がアイスをたべていたときのものだな。名前ちゃんはいちご味のアイスを片手に、ふいに撮られたものなのかちょっと驚いたように微笑んでいる。可愛らしいなあ。このときの服も似合ってる。この後、ぼくは名前ちゃんを連れて帰ったんだっけ。

「あの…」

チラシを見つめたまま動かないぼくを見て不審に思ったのか、マキさんが不思議そうにこちらを見つめる。いけない、名前ちゃんに見とれずに平常心を保たないと。


「ああ、もらっておくよ」
「え、あ、ありがとうございます!」


道ゆく人はこのチラシをほとんど受け取ってもらえないのだろう、ぼくがチラシをにこやかに受け取ると、嬉しそうに破顔した。よく見ればマキさんの他にもちらほらとこのチラシを持った女の子がいた。名前ちゃんの友達かな、やっぱり愛されてるんだ、名前ちゃん。

「…この子、1ヶ月前から連絡が取れなくて、」
「へえ、…彼氏の家にいるとかじゃないのかい?」

「っそんな子じゃないんです!」

ぐっと顔を前に出してマキさんが否定する。大声を出したことを慌てて謝って、名前ちゃんのことを話し出した。男友達はあまりいなく、彼氏もいないこと。周りに心配をかけるような子じゃないこと。うん、わかるよ。ぼくは名前ちゃんのことはなんでも知ってる。彼氏がいないことなんてとっくの前から知っている。もしいたとしても、あまり関係がなかったけどね。そんな存在の男なんか、いらないよね。だってぼくがいるんだから。名前ちゃんはぼくと2人だけの世界でこれからも過ごすのがいちばんいい。名前ちゃんに他の人なんていらない、外の世界なんてもう、戻らなくていい。
ふと見ると、その子の瞳にうっすらと涙が溜まっていた。ぼくが黙って話を聞いているので、感極まってしまったようだ。

「一度でいいから、連絡が欲しいんです。……わたしの一番大切な友達だから」


俯いた衝撃で水が落ちた。それからとめどなく瞳から涙が落ちる。肩を震わせて、弱々しく泣くマキさんに、ぼくは初めて動揺を見せてしまった。その滴り落ちる涙を見て何を感じたのか自分でもわからなかった。彼女の肩をさすって、見つけたら連絡するねと告げて足早にその場を去った。動悸がする。夜でもないのにずきんずきんと頭が痛かった。家の近くまで来て、ようやく息を整える。変な汗が滴れて嫌な気持ちだ。じっとりと濡れた手のひらが、首元が、こめかみが、ひんやりと冷たい風にさらされる。名前ちゃんの虚な目。もう1ヶ月も見てないあの笑顔。そして友人の涙。一番大切な友達。ぼくにとって名前ちゃんは一番大切な人だ。じゃあ、名前ちゃんにとってぼくは?名前ちゃんは誰といるのが幸せ?もう一度あの笑顔を見せてくれるなら、ぼくはなんだってするのに。考えるのを辞めたはずなのに、反芻する。もう戻れるわけがない。ぼくも、真宵ちゃんも、…名前ちゃんも。そんなこととっくに覚悟していたのに。たとえ自分の中にまだ微かな正しさがあったとしても、それを押し殺して、踏みにじって名前ちゃんを手に入れると決めたのに。ふとぼくの姿がビルのウィンドウに映った。それに写ったぼくはまるで初めてぼくの目の前で目を覚まして、初めてぼくの顔を認識したときのきみの顔だ。買い物袋をどさりと捨てて、昨日のように手のひらで顔を覆う。じっとり汗ばんだ手のひらがぼくの頬を包む。頭の痛みがいつものように溶け合ってくれない。それどころかずきんずきん、ずきんずきんと増すばかりだ。落ち着け、ぼくは大丈夫。おかしくないし、間違っていない。……そうだよな?いくらたっても頭は冷静になってくれない。そのままこめかみに爪を立てて痛みを誘っても、頭の中だけがぐるぐると迷路のよう。おかしいな、まだぼくは人間だったみたいだ。


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