あの日からこの男の異常さを再確認したものの、とくに無力なわたしにできることもなく無情にも時間だけが過ぎていった。毎朝同じ繰り返しだ。助けを呼べるツールもないから、唯一外の情報を知ることができるテレビくらいしか見るものが無かったのだけど、最近になってそのテレビも禁止されてしまった。細かくいうと、わたしが暇をしないようにサブスクの動画配信サービスのみ観れるようになっている仕様に変更されたのだ。これは大変困った、ニュースも見れないならわたしの情報がいまどのようになっているのか確認する術がない。行方不明者とかでテレビで報道してくれたら、わたしのなかのこの絶望が少しでも和らぐのに。…まあ、冷静になって考えてもみればわたしがテレビを禁止されるなど当たり前のことだ。そんなの知ることができたら、簡単に逃げ出せてしまうもの。少しでもあの男への好意を感じさせるように努めて行動してきたものの、まだそのような域には達していないということだ。口では「かわいい」「ずっと一緒にいよう」などとお花畑のようなことを言うくせに、あくまで冷静だ。そういえば、最初と比べて大分発言にも変化が出てきている。前はもっと腫れ物を扱うような、なんというか誘拐したくせにそんなに会話をしなかったのに、今ではもうこの有様だ。本性がでてきたということか。今でもなおわたしに触れることや、わたしが嫌がることはしないが、いかんせん発言が気味悪い。まるで前から一緒にいるというか、むしろお付き合いしていたかのように振る舞ってきてなんともいえない恐怖と鳥肌が立つ。なんでこんな人がこんなことを、と思っていたときが馬鹿らしい。こいつはどう考えても異常者で、しかるべくしてこんなことをしているのだとまざまざと思い知らされた。

「名前ちゃん、ちょっとまってて」

そして時折こうやって成歩堂さんがどこかへ行く。最近はもうずっと監視されっぱなしと言うか、以前より明らかに成歩堂さんがわたしのそばにいることが増えたのでこうやって短い時間でも一人になれるのが心の支えだった。おそらく、前みたいな訪問者が来ないように先回りしているのだろうか、あれから目立った訪問者はあらわれていない。経営はどうなっているのかと思いたいところだけど、しっかり根回ししてあるのだろう。…そういえば、あの仲間の女の子もあれから見ていないな。最も、わたしはその女の子の顔は見たことがないのだけれど。

しばらくして、あの男がなにやら思い詰めたような顔をして戻ってきた。でもほんの一瞬で、すぐにぱっとまたいつもの緩み切った笑顔に変わる。少し違和感はもったものの、変に刺激するのはよくないと思ってまた皮を被る。「ごめんね、ひとりにして」「もう大丈夫だよ、お腹すいてない?」などと朗らかに笑う目の前の男が全く理解できない。



その日の夜、ベッドで決して深くはない眠りについていると、ガタガタと音がした。何事にも過敏になっていたわたしは、自分が襲われるんじゃないかと思って飛び起きた。けれどこの部屋には誰もいない。音の正体はドアの向こうかららしい。また成歩堂さんがなにか逃走防止のために作業をしているのだろうか、無闇に行動を起こすべきじゃないと思いながらも、キイと極力静かに扉を開けて向こう側を確認する。……だれもいない。それでもまだ音がするので聞こえる方向にそろりそろりと気配を消しながら歩く。どうやら、お風呂場のあたりらしい。こんな時間に、成歩堂さんはなにをしているのだろうと一歩近づくと、

「…くそ、」

途端にがんっと強い衝突音がなって思わず飛び退いて声が出そうになった。洗面台の前で、成歩堂さんがわたしに背を向けながら自分の拳を鏡に叩きつけていたのだ。顔はじっと洗面台の流しを向いていて表情はわからない。けれど、その握った拳が力を入れすぎて白くなっている。いまの一際大きな音のせいなのか、鏡の端にヒビが入っていまにもがらがらと割れそうだ。細かい破片が刺さったのか、もう一度鏡を殴ろうとする拳の端に赤い色が見えた。わたしが起きることも厭わず、ただ拳をひたすらに鏡に叩きつけている光景を見て、思わず慄いた。決して正常な精神ではないだろうその狂気さに、生理的な涙が出そうになる。

「………」

ふと、殴り続けていた拳を下ろしてゆっくりと鏡を見つめる。そこで初めて成歩堂さんの表情が見えた。その表情は、悲痛に歪んで今にも泣き出しそうだ。ぎゅっと眉間にシワを寄せて、唇をかみしめて顔色は真っ青。明らかに、普通ではなかった。1分だったか、はたまた数秒だったかわからないが自分の顔を見つめて、深い深呼吸のようなため息をついて両の手で顔を覆う。その指の隙間から見える表情も、困惑と懺悔、何かに許しを乞うような表情だった。血で濡れた拳が痛々しい。…もしかして、この男にもまだ良心のかけらがあったのか。その表情はわたしを誘拐したことの後悔を示すそれのように見えて、淡い希望が胸をよぎる。
いまなら、説得したら解放してくれるかもしれない。
そう思って成歩堂さんに慎重に声をかけようと一歩足を出そうとしたそのとき、大きな掌がゆっくりと下される。それをみて、わたしはまたも恐れ慄くしかなかった。
するりと下ろされあらわになった成歩堂さんの表情は、無そのもの。まるで感情がなくなってしまったように、ロボットのように見えた。先程まであんなに激昂していたのに、いったい、何が起こったというのか。
指の間から垂れた血が成歩堂さんの頬を汚していて、より一層異常さを演出している。たった数秒にも満たない一瞬の変化に、恐怖でたまらず呼吸が浅くなる。わたしの息遣いが聞こえたのか、ゆっくりと成歩堂さんがこちらを向く。その動作がまるでスローモーションのようにゆっくりと、ゆっくりとなされわたしはその間に息をするのを忘れた。
ばちっとかち合った目線。成歩堂さんの表情は、未だ無だ。虚構を見つめるような深くて暗い瞳が、わたしの体の全てを射抜くように掴んで離さない。異様な空間だった。まるで永遠のように感じられて、目を離すこともできない。蛇に睨まれた蛙とは、このことか。

「……眠れないのかい?」

ぱっと明るい声色に、わたしの呼吸も思い出したかのように途端に再開した。気がつくと、成歩堂さんはいつものあの爽やかな笑顔に変わっていた。朗らかに、優しく。彼は、二重人格かなにかだろうか。もう訳がわからなくて、脳が考えるのを一時的に停めていた。するり、と肩に手を添えられベッドへ行くように促される。じゃあおやすみ、と声をかけて部屋を出ていく成歩堂さんの笑顔をぼうっと見ていた。もしかしてさっきのは、見間違いだったのだろうか。あの人形のような顔は、深淵を見つめるようななんの感情も表さない瞳は、わたしの幻だったのか。でもたしかに、成歩堂さんの頬には赤い血がついていた。


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