ある日の夕方、学校から帰って家事をしていると、窓の外からざあざあと音が聞こえてきたので覗いてみた。

「…雨だ」

季節は6月も中旬。いわゆる梅雨の季節である。そういえば昨日か一昨日に梅雨入りしたと朝のニュースでやっていたな。家に帰ったあとでよかった。今日の朝は晴天だったから、傘を持っていなかった。そのままベランダを開けて雨が滴る世界を一人で眺める。雨は存外嫌いじゃない。濡れるのは不快だけど、このけたたましい車の音が、人の声が、世界の音が、雨という自然の音ですべてが一掃される気がして好きなのだ。道路の隅っこに雨の道ができて、とめどなく坂を下って小さな川になるのを見るのが好きだ。川になる前の独立した水溜まりもいい。 雨が落ちるたびに水溜りの中の画面がゆらゆら揺れて、たくさんの波紋を作っていくのを見るのが好きだ。そして雨上がりには、その小さな劇場に世界を逆さにさせて映し出す。そんな光景を見るのが好きだった。しばらく高いマンションの一室から、普段は鮮やかな街並みが白く灰色がかっているのを見つめて、ふと思い出した。
今日の朝は、御剣さんは傘を持って行っていたっけ。御剣さんは職場がわりと近いけれど毎日赤いスポーツカーで通勤していた。だからいつもなら傘なんて必要ないのだけれど、今日の朝はあのスポーツカーに乗っていなかった気がする。なぜならわたしより若干早く出たはずの御剣さんが、わたしが家を出たころにはマンションの近くの路肩で車線を見つめていたからだ。あのときは特に気にも留めなかったけれど、あれはタクシーを待っていたのではないか。念のためと思って家を出てマンション一階の駐車場へ行く。

駐車場の端っこに、一際目出つ赤いスポーツカーがあった。わたしはこの車に乗ったことがないけど、たぶんこれは御剣さんの車だ。だって中を覗くとルームミラーのところに見覚えのあるストラップがある。あれは、いつかわたしが真宵ちゃんと友達になったときに御剣さんにあげたトノサマンのストラップだ。こんな高級そうな車に似つかわしくないストラップに、くすりとわらった。気に入っているのが目に見えてわかって、トノサマンが好きだからとは言えすこし気恥ずかしくなった。
ここに車があるということは、やっぱり御剣さんは車通勤でない。帰りもタクシーを使うかもしれないけど使わない可能性もある。この土砂降りだ、万が一タクシー以外で帰るとなると絶対びしょ濡れだし風邪をひいてしまう。

「よし、」

一旦家に戻って、レインブーツに履き替えて自分の傘ともう一本黒くて大きい傘を持つ。2回目のおつかいだ。前回手帳を渡しにいったから、場所はなんとなくわかるしきっと糸鋸刑事さんもいる。なんとか行けるだろう。少し不安はあったものの、いつ御剣さんが帰ってくるかわからないのだ、早くいったほうがいいと意を決して検事局へと歩き出した。



ざあざあとわたしの傘を叩きつける雨音を聴きながら、雨の心地よさを感じながら歩けばいつのまにか検事局までたどり着いた。レインブーツを履いていたから靴は大丈夫だったけど、横殴りの雨だったせいか制服の端っこがびしょ濡れだ。せめて着替えてきたらよかったかな。傘を畳んで2回目の検事局にこっそり足を踏み入れる。相変わらずスーツの人ばっかりで、制服のわたしがとても不釣り合いで物怖じする。前はここで糸鋸刑事さんが来てくれたなあ、と考えていると、超能力でもあるのだろうか、聞き慣れた明るい声が横から聞こえた。


「名前ちゃんじゃないッスか。また御剣検事に会いに来たッス?」
「あ…糸鋸刑事さん」
「ずっと思ってたッスけど、糸鋸刑事さんはなんか固いッスねえ」

うーんと唸り声を上げる糸鋸刑事さんをみて、ほっと安心した。困っているときに来てくれる、正義のヒーローみたい。それにしても、御剣さんも、糸鋸刑事さんも、呼び方を変えるのが流行りなのかな。わたしも御剣さんに名前で呼ばれてびっくりしたけど嬉しかったし、わたしも、かえてみようかな。

「…イトノコさん?」
「まあ、それでいいッス!前より仲良くなれた気がするッス!」

おそるおそる、真宵ちゃんが呼んでいた風に呼んでみると、にっこり笑って応えてくれた。…よかった、不快には思われなかったようだ。イトノコさん、いとのこさん。と心の中で何回も復唱する。仲良く、なれたのかな。


「それで、どうしたッスか?」
「あの、雨が…」

降ってるから傘を、と言おうとしたとき、室内の温度差からか、くしゃみをしてしまった。言葉は途切れてしまったけれど、イトノコさんは手に持つ黒い傘を見て理解してくれたようで、くしゃみをしたわたしを心配してくれた。

「傘を届けに来たッスね!そんなに濡れて、風邪ひいちゃうッスよ。あ、そうだ!御剣検事の執務室に案内するッス!」

濡れるのもかまわず、イトノコさんが自分のコートをわたしの肩にかけてくれた。そのやさしさと、大きすぎるコートに残るぬくもりとでわたしの心があったかくなる。どんどん案内されて、必死に後ろをついていく。いくつもの似たような部屋が並ぶ中、1202号と書いてある扉の前まで来た。失礼するッス!と荒くドアを叩いて部屋主の返事も待たずイトノコさんがずかずかと部屋に入っていくので慌てて追いかけた。いるのかなあ、と不安に思ったが見てみると正面のおしゃれで高そうな仕事机にたくさんの紙を置いて、イトノコさんには一瞥もくれずに読み耽っている御剣さんがいた。どうやら、この入り方は常らしい。こちらを見もしないのだからわたしには気づいていないだろう。どうしようと思っていたら、イトノコさんが嬉しそうな声色で御剣さんに話しかけた。

「御剣検事、名前ちゃんが来てるッスよ」
「…なに?」


ぱっと驚いたように顔を上げて、わたしとばっちり目が合う。その表情は驚きと困惑。居た堪れずに会釈をする。突然きたから、困ってるよね。
謝ろうと俯いたとき、地面に大きな影がかかった。わたしを見てすぐに向かってきたのだろう、怒られるかなと身構えると、イトノコさんのコートを引っ剥かされて代わりに上質なタオルがふわりとわたしの身を包んだ。

「名前くん、どうしたというのだ。びしょ濡れではないか。外で何かあったのか?」
「御剣検事、違うッスよ!名前ちゃんは御剣検事をシンパイして傘を届けに来てくれたッス」

すごい剣幕に圧倒されているあいだにイトノコさんが全て説明してくれたので、こくこくとそれに頷く。わたしの顔と黒い傘を交互に見やって、のちに勘違いだと知ると、御剣さんがあからさまに安堵した。

「な、そうだったのか…糸鋸刑事、先に言いたまえ。あと、こんな汚いコートを名前くんにかけるな」
「ひ、ひどいッス…自分の魂がこもった愛情深いシロモノッスのに…」


ハア、とため息をついてふわふわのタオルで体を拭かれる。「風邪を引くだろう」「ちゃんと拭きたまえ」としきりに喋る御剣さんはさながら母親のようだ。ある程度水気を取って、これまた上質そうなイスに座らされた。御剣さんはそれまで見ていたであろう紙の束をどんどんまとめてイトノコさんに押し付ける。

「私は今日のところは帰宅する。資料をファイリングしておいてくれるか」
「そんなのお安い御用ッス!」

仕事を頼まれて嬉しいのだろう、イトノコさんが尻尾をブンブン振っている(ようにわたしは見えた)
わたしが来たからお仕事中断したのかな、と不安になっていると御剣さんが優しい顔で「ちょうど切り上げようと思っていたところだ」というので押し黙った。そういう優しさが、本当に好きだと思う。

「傘を持ってきてくれたのは嬉しいが、このまま帰ってもキミがさらに濡れるだろう。タクシーを手配するからしばらく待っていてくれたまえ」


ものの数分で検事局前にタクシーが到着した。二人で乗り込んで、もと来た道を逆走する。結局傘が使われることはなかったが、この雨の中のタクシーの時間もいいと思った。雨に濡れてしまったから、今日はあったかいスープを作ろう、とりあえずは御剣さんが濡れなくてよかったなあなどとひとりごちた。


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