「そういえば、どうして御剣検事は名前ちゃんのことを苗字くんって呼ぶッス?」

成歩堂法律事務所に行ってからしばらく経ったある日、執務室で糸鋸刑事と共に次の事件の精査をしていると糸鋸刑事がおもむろにそんなことを口走った。

「…質問の意図がわからないが?」
「名前ちゃんと御剣検事はもう長い付き合いなのに、変ッスよ!」

長い付き合いと言えど、たかだか3、4ヶ月ほどだろう。と口を挟みそうになったが噛み込んだ。とどのつまり、この刑事は最近知り合った周りが苗字くんのことを名前で呼ぶのに私が未だ名字で呼んでいることが違和感があると言うことだ。そのようなことを言われても、父の友人から預かった娘であるし、今は打ち解けてきたとは言え女性を軽々しく下の名前で呼ぶのは気が引ける。指摘されるまで特段気にしたことはなかったが、なるほど確かに側から見ればキョリは感じるのかもしれない。いつまで共同生活を送るのかは定かではないが、このままでいてもそれほど彼女に歩み寄る引き金がないのも確かだ。……いや、だがしかし。

「やはり女性を軽々しく下の名前で呼ぶのはシツレイだろう」
「でも真宵ちゃんは真宵くんって呼んでるッス」
「それは、そうだが…」

私があの少女を名前で呼ぶ理由なんてたかが知れている。…成歩堂が名前で呼んでいるからだ。生来人の呼び方など深く考えたことなどない。古くから見てきている冥のことは名前で呼ぶが、同じく小学校の級友である成歩堂や矢張のことは名字で呼んでいる。言うなれば、特に理由はない。だから指摘されるまで気がつながったのだ。呼び方ひとつでどうかなるなど、思ったことはなかった。…今までは。
生まれてから今まで、どちらかというと閉鎖的な生活及び人間関係を送ってきた。友人だって家が引っ越しすることが多くあったから深く関わろうと躍起になった記憶なぞない。部下や仕事関係の人間は言うまでもない。部下はコロコロ変わるし、私についていこうとする物好きな人間なんて私の知る限りでは目の前のこの男しかいなかった。部下がそうなら上もそうだ。数少ない上司だって変わる。それに、以前までは友と呼べる人間を作ることは私の中になかった。ただひたすら、有罪を勝ち取って勝利する。それ以上でも以下でも無かったのだ。…嫌なことを思い出した。ともかく、少なくとも今の私は昔のような人間ではないと自負している。となれば、そういった呼び方ひとつでも考え方を改めたほうがいいのかもしれない。

「今日帰ったら名前で呼んでみるといいッス!きっと名前ちゃん、びっくりして飛び上がるッスよ!」

わはは、と豪快に笑う部下を尻目に、彼女なら呼び方が変わったとて特に気にしなさそうだがと思った。




そして1日の業務が終わり、家路に着いた。
鍵を開けて扉を開けば、いつも飲んでいる紅茶の香りが漂ってきた。どうやら休息を取っているらしい。扉の音に気がついて奥から小走りで苗字くんが来る。おかえりなさい、と控えめに言って奥へ引っ込んでしまう。…いざ意識してみると、なかなかどうして呼ぶタイミングが見当たらない。普段の私はいつ、彼女の名を呼んでいただろうか。いつまで経っても家に上がらない私を不審に思ったのか、心配そうに苗字くんが覗き込んできた。それに私はいや…と曖昧に、苦々しく目線を逸らすことしかできずに靴を脱いだ。

「御剣さん、元気ない?」
「あ、ああ…いやそのようなことはない」

「そっか、…あ、紅茶いれるね」


いったい世の中の人は、いつどのタイミングで呼び方を変えるのだろう。自分が気にしているからか、自然と呼ぶ機会がまったく掴めない。呼ぼうにも今のタイミングでは変ではないか、不自然ではないかと考えがよぎって結局言えない。今まで何事も難なくこなしていたというのに、たった一言だけが上手く言えない腹立たしさを感じた。

特にタイミングが掴めず気がつけば双方とも風呂に入り終わって後は寝るだけという時間になってしまった。未だキョリが計れずにいると、苗字くんが小さい欠伸をしながら「じゃあ、おやすみなさい」と言ってきた。経験上、このようなことを後回しにしていたら今後まったく言えなくなるのが常なのだ。…うム、今しかないだろう。

「ああ、おやすみ、…名前くん」

はあいと眠気まなこで自室へ戻る苗字くん。まあ、いいだろう、今のは自然だった。謎の達成感を身に染みて感じていると、突然ばたばたとリビングのドアが開け放たれた。そこには丸い目をさらに丸くさせ、唖然と口を開いている苗字くんがいた。

「い、いま、あの」
「……やはり嫌だろうか」

考えてもみれば、まだ数ヶ月ほどしか生活していない赤の他人に気安く名を呼ばれるなど気に障ることだ。やはり配慮が足りなかったし、まだそこまでの仲になれていないことに心の中で憤りを感じたが、当の本人はぶんぶんと勢いよくかぶりを降った。

「いや!じゃない…です……えっと、嬉しくて」

いうや否やりんごのように顔を紅潮させる少女を見て、同じく嬉しさと、気恥ずかしさと、その他さまざまな感情が流れ込んできた。彼女の言葉にああ、だったかそうか、だったか…なんと答えたのか思い出せないが気がつくと苗字くんはすでに自室に戻っていた。呼び方なぞで気にしないと思っていた彼女の初々しい反応に、なぜか胸の辺りが痛くなった。おぼろげに思い出す彼女の嬉しそうな笑顔を、私は一生忘れることはないだろう。呼び方ひとつでこんなに喜んでくれるとは思いもしなかった。考えをあらためて、実に良かったと思う。心なしか距離も縮まったかのように感じた。…これからは、名字でなく名前で呼ぶことにしよう。


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