咄嗟に暗闇が私の体中を包んだ。
……私はとんでもないことをしてしまった。それを理解した途端、体中が波に打ち付けられたように冷たくなり、まともに立っていられなくなった。私はようやく気づいてしまったのだ。この世界はとんでもなくイカれている、と。
「シャ……チ……くん……」
頭上で蠢く声は不安定だった。心臓の近くにある、鮮血のような、生々しい声。私が大好きな彼の低い声が、蠢いている。
「……私は……わたしはぁああああああ……! わるくない……! わるくないもん……!!」
彼女は怯えた目をしていた。狂人だった。気が狂っている。その計り知れない、人間とは思えない、獣のような姿に私は怯えずにはいられなかった。
「……御島……テメェ……」
シャチくんは立ち上がった。ごぽぉと心臓部から血が流れ、私の頭にこぼれ落ちた。私は受け入れられなかった。受け入れられるはずがなかった。だって、シャチくんが人を殺しているっていう感覚すら、私には無かったのだから。
「やだ……こないでぇええええぇえええぇ!!! 私悪くないもん!! アンタが悪いのよおおおおおおおおぉおおお!?」
御島先生は、震えた両手でナイフを持ち、一心不乱にシャチくんに襲いかかった。シャチくんは巨躯を揺らし避けた。こぼれ落ちる流血さえ無ければ、それは身軽と言えたのかもしれない。……重苦しい何かがあったのは確かだ。それは、シャチくんが獣の如く御島先生に噛み付いたときも。
断末魔があった。クラスは矛盾した静寂に包まれていた。あるのは御島先生の叫び声、それだけだ。シャチくんの相変わらず表情のない顔に、御島先生のこの世のものとは思えない、世界中に怯えている顔……それだけが残像みたいに私の脳裏にこびりついている。きっと、永遠に残るんだろう。忘れることなんてないよ。一秒たりとも。
数分後には何も無くなっていた。さっきまでの狂人はどこへ行ってしまったのかというくらいに静かだ。
ある生徒が恐怖に耐え切れず、悲鳴をあげるまでは。
「やっぱり獣人は狂ってる!!」
「違う! 今のはあいつが刺されそうになったからだ! あの女だけが鯱田を止められる!」
「いいや! あの女がいるから鯱田は狂っているんだ! あの女さえ居なくなれば学校は安心になる!!」
「そうだそうだ!!! あいつらどっちも殺せば世界は平和になる!!」
私はようやく気づいてしまったのだ。この世界はとんでもなくイカれている、と。
そして私はもう一つ、気づいてしまったのだ。私も十分イカれていて、寂しい存在だったのだなぁ、と。
――世界がシャットアウトした?
誰かいますか――暗くて何も見えない。
いや、暗いんじゃないな。ああ、わかってきた。白い、どちらかと言えば白いんだ。
明るい木漏れ日が教室を照らしていた。窓際の席は明るく、春風が桜の花びらを運んできそうなくらいに心地の良い旋風が押し寄せてきていた。カーテンがふわりとパニエのように舞う。
逆に扉の方は陰っていて冷たい。気だるい午後を思わせる、いつも通りに陰る場所。
そんな二つの空間の間に死体が一つ。
――いいや、それだけじゃない。どっちにもある。窓の方にも扉の方にも、明るい方にも暗い方にも、正にも負にも、午前にも午後にも、温かい方にも暗い方にも、陽にも陰にも、光にも闇にも。
逃げ道なんて、ないんだ。
もう、誰もいない。
「……嫌ァ……!」
嫌だ。