スパゲティのようなキスをしてみたい。帰り道、ふと鼻孔を擽った甘酸っぱいトマトソースの香りでそう思う。私はとてもお腹がすいている。
 私の足を冷たい風が通って行く。風が通っていけなくなるくらいぶくぶくに太ったとしたら、シャチくんはきっともっと私を好きになるんだろう。それは分かっている。
 私は今スパゲティが食べたい。そこに柑橘系のジュースと、ミートソースにお似合いのハンバーグが乗っかっていれば尚良しだ。それと一緒だ。シャチくんは私を食料としか見ていない。私もスパゲティを食料としか見ていない。つまり、魅力というものだ。魅力の差が全て。食い物業界は厳しいのだ。
 でも違うのかもしれない。シャチくんの中で性的魅力=食料的魅力だとしたら、全てが丸く収まる。私は愛されたい。シャチくんは愛したい。そうなんじゃないか。全て理に適っていて、私たちはそこに綺麗に嵌めこまれている。
 でもそれって違う気がする。というか、虚しい。そんな気がする。なんというか、人間の中では美人=痩せているという鉄壁のルールがあるわけで、やっぱりそれは無視できないのだ。私の中では、だけれども。
 スパゲティの匂いが脳内で暴れまわる。お肉の匂い、トマトの匂いなんて単純なものじゃなくて、個々から発せられる旨み成分が複雑に混じりあった匂いなのだ。それは煮たり焼いたりされることでさらに面倒くさくなる。でもそれに私はどうにも惹かれるのだ。この匂いを表現するにはどの言葉が似合う? いや、正しい? “不思議”とか“神秘的”なんていうのが一番じゃないの、そんなこと凛子に言ったらまた呆れられるだろう。そして「いつも食べることしか考えてないんだから」と言われるに決まっている。
 そう言えば凛子は元気だろうか。別のクラスにいる凛子は私と同じ普通科クラスだ。彼女はとんでもなく女子力が低い。それに非常識で変人だ。しかし美人という呪いにかかっている。それに何より、物を美味しそうに食べる彼女が、私は好きだった。そんな私と彼女が仲良くなるのには時間がかからなかった。中学二年生のときのことだった。
 こんな化物だらけの学校へ行こうと騒ぎ出したのも凛子だ。私は二つ返事でいいよと頷いたが、これは正解だった。凛子は今蛇の同級生と付き合っているらしい。彼女も充実した生活を送れているし、私みたいな青春を送れなさそうな人間でもこうやって生きている。そして腹を空かせているわけだ。
 電柱で泣き喚くカラスがうるさい。シャチくんは今頃どうしているだろう。きっとこんな路地裏の商店街を抜けた先の道をとぼとぼ歩いてなんかいないだろう。シャチくんは今日用事があると言って先に行ってしまった。いつもは一緒に帰るのだ。そしてくだらないおしゃべりをするのだ。
 ふと思い出す。やりたいことがあった。夕方。季節は秋がいい。丁度旬だ。きらきら光る河。橋の奥では夕焼けが半分顔を隠している。土手に座ってそれをじっと見る。周りには誰もいない。後ろを通り過ぎるチャリのサラリーマンも、サッカーボールを蹴り合う子供もいない。きらきら光る河。じっとそれを見ていて、私は何故か感極まって泣いてしまう。シャチくんが顔を寄せてくれる。そして食われる。
 やってみたいと思ったけれど、シャチくん無神経すぎないか。それにやったところでその先何も無くなる。私はシャチくんの血肉になって終わる。それってあまりにも虚しすぎる。だって私はシャチくんに愛されているわけで、私が消えたらシャチくんまで悲しんじゃうだろう。
 そうだ。昔とは違うじゃないか。何も目的がなくて、何も才能がなかった昔とは違うじゃないか。シャチくんに愛し愛され相思相愛状態の今、私が死ぬ必要なんてないじゃないか。
 でも生きる理由だって必要ないじゃないか。そう考えたところで、シャチくんに出会う前の人生が全て無駄だと気づいてしまった気がしたので、私は凍った空気を鼻からゆっくり吸った。すうぅ。
 ダイエットしようかな。スパゲティも、スパゲティみたいなキスも暫くおあずけだ。人間の男にモテたいとは思わないけど、自尊心くらいは取り戻したい。



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