私の師匠は言わずと知れたヘアメイクアーティストで、その天才的な技術は多くの人々を魅了してやまなかった。だが"カリスマ美容師"と表すと妙に軽く感じ、陳腐に聞こえどうにもしっくりこない。その才能をたった四文字に込めるなんてのは不可能なのだ。

 師匠を指名するお客様は特別な方ばかりで、入社僅かな私には勿論カットの機会なんかやって来ない。
通りに面した入り口とは違う、一見見付けにくい裏口から特別仕様の優雅な部屋にご案内する。プライバシーが守られる様配慮されたこの空間にはお客様と師匠、陰ながらアシスタントをする私しか居ない為、のんびりと寛ぎながら施術を受ける事ができるのだ。

 一人一人の好みに合わせた音楽を選び、国内外問わず取り寄せた一流のお茶やお菓子を用意し、室内の風向きや湿度等の空調にも注意を払う。私は息を殺し存在感を消しながら、いつも空間の整備に神経を張り巡らせていた。こうしていると私は何の仕事をしているのかと正直自問自答しそうになる。メイド、執事、家政婦…どれもぴったり当てはまる訳ではないが、どう考えても美容師よりかは近い様な気がした。

 ここでの私は背後霊だが、向かいの建物に戻れば皆の目に映る事が許される。新米であろうと何だろうと息を止める必要はないのだ。
何か粗相をした訳では無いと思うが、私は少し前からこの特別室対応を頼まれるようになり、今では殆どここ専属のような形になってしまった。一般のお客様への接客時間が半分程になったということは、カットやカラーだけでなく、できた筈の多くの経験ができなくなった事を意味している。マネキンや先輩相手に練習は続けているが、やはり色々な髪質の人に関わらないと成長できないのではと不安に襲われる。オーナーに相談すべきなのだろうが、師匠の考えが読めない部分もあり、中々言い辛いのが正直な所だ。





「は…は、灰谷様のご予約は明日でございます」

「ん…?そーだっけ?あー…そういや今日は結婚式とか言ってたような」

「い、…いもうとさんの結婚式なので、今日は呼ぶことは…も、申し訳ありません」

「いや流石にそれは呼びつけねーから」


 特別室の掃除をしていたらインターホンが鳴り、動く絵画の様な人が画面に映っていて血の気が引いた。大体いつも同じサイクルでいらっしゃるから、もしかしたら来るかもしれないと準備していて良かった。こうした繊細なお客様は、予想外な事でぱたりと足が遠ざかることがあるのだ。師匠のお客様を私の稚拙な接客で失う訳にはいかない。誠心誠意謝ろうと思うのに、池の金魚のようにパクパクして言葉が上手く出てこない。焦れば焦るほど息が上手く吸えなくてパニックに陥りそうだ。これは先輩を呼んだ方が良いかもしれない。


「じゃあまた明日来るか…。……そーだ。なぁ、あんたがヘッドスパしてくれよ」

「ヘッッッッドスパ…を、わたくし、が」

「………今日は朝からここに来る気分だったんだけど、カットとカラーは今日できねーからとりあえずヘッドスパ」

「少々お待ちください…予約の状況を確認いたしまいたしましますので」

「アンタで良い。その格好って事は掃除してたんだろ?なら予約入ってねーだろ」

「わ、わたしはまだ新人でして、その、灰谷様の接客はできませ」

「そっかー」



 ヘッドスパはするのもしてもらうのも大好きで得意なメニューだが、私の指名ではないお得意様を相手に、と言うとそれはまた別の話である。そもそも私だけでなく、オーナー以外の人間は誰も灰谷様の髪に触れる事は許されていない。新人なんてもっての他、あり得ない事なのだ。狼狽える私を入り口に放置し、灰谷様はいつもの席にどかりと座り欠伸をし寛いでいる。もし勝手に接客をしたら、私はここを首になるかもしれない。そうなったら今までの苦労は全て水の泡になってしまう。とんでもない倍率の中を必死で勝ち抜き、漸く掴んだ夢の舞台だと言うのに…。どうしたらこの難局を乗り越えられるのだろう。


「黙ってればバレねーじゃん。別に態々オーナーに言わねぇし」

「薬液の匂いに気付かない筈が無いんです…。」

「あー…面倒くせぇ」

「も、も、申し訳ありません!!」

「じゃあ明日やって。カットの前のスパはオーナーじゃなくてお前な。ゴッドハンドの腕にオレも興味あんだよ」


 嵐の様に去って行った灰谷様は、私の返答を待たず帰って行った。きっとこれは、いや絶対明日施術する羽目になるだろう。オーナーには何と説明すれば良いのか…。とりあえず顛末を全て話すしか無いだろう。
不幸中の幸いなのは、もう来なくなるような地雷を踏まなかった事だろうか。もしかしたら明日踏みまくるかもしれないが、今の所はセーフだろう。さらっと聞き流してしまったけれど、重大な誤解があったような気がする。私はゴッドハンドなんぞではないから、灰谷様は何やら人違いをしているようだ。とは言え訂正する勇気など生憎持ち合わせていない。
もう午後の仕事の全てに集中できる気がしないが、先輩に頼んでベッドスパの練習をさせて貰おう。悪足掻きでしかないが、何もしないで明日を迎えるなんて恐ろしくてできやしなかった。





「蘭クン、今日はどんな髪型にする?」

「そうだなマイルス・デイヴィスが最後に奏でたピアノの旋律みたいにしてよ」

「今日も絶好調だね、蘭クン。…ちなみにマイルスはトランペッターだよ。今日は初めにヘッドスパをやっていくね。担当は苗字で良いんだよね?」

「うん。オーナーの秘蔵っ子だろ?」

「本人にはナイショだよ」




 ヘッドスパ台に横になっているだけなのに、この空間が絵画のように見えるのは何故なのだろう。ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリアが脳裏に浮かび上がり、ある筈もない花が水面に揺れている様な気がした。
優しく垂れた形の良い眉毛に、作り物のように長い睫毛。アーモンド型の魅力的な目元、日本人離れした高い鼻、毛穴一つない陶器のような白い肌。組織や細胞の一つ一つまで着飾っている様な、異質で別次元な美しさがそこには宿っていた。手を合わせたくなる様な神々しさから目を逸らし髪を解していく。心を込めて接客しよう。どうか日々の疲れが癒やされますように。






「蘭クンお疲れ様。ヘッドスパどうだった?」

「………え?…もう終わったんだっけ」

「うん、終わったよ。これはローズティーね。ローズジャムをお好みでどうぞ」

「……何も覚えてないんだけど」

「ゆっくり休めて良かったね。ゴッドハンドも伊達じゃないでしょ。お茶も、今の気分にぴったりなんじゃない?」

「いや…まぁそうだけど…」


 ぼんやりとした記憶を整理しようと、来店してからの事を時系列に振り返ってみる。いつも通りオーナーと話した後施術台に横になり、髪が解された事は覚えている。その後はラベンダーと仄かにオレンジのオイルが香り、温かい手に頭を優しく掴まれ、感じた事のない心地良さが体全体に伝わっていった。施術されているのは頭だけなのに、全身が解されるなんて可笑しな感覚だが確かにそうだったのだ。気付けば足先まで力が緩み、雲の上に横になっているかのようだった。
悔しい事にそこから先の記憶が全くなく、時計を見ると40分程時間が飛んでいた。12時間近く寝てから来たというのに、まさか開始早々熟睡してしまうとは思わなかった。



「……アイツ何者?」

「僕の愛弟子」



 命からがら大蛇の前から逃げ出したような気でいたのに、灰谷様はあれから継続的に私を指名するようになった。マッサージやシャンプー等のメニューに限り担当させていただいているが、それでも正直行きた心地がしなかった。鏡越しに目が合うと、縫い付けられたように視線を逸らす事ができなくなった。呆けていると「何カラットなのだろうか」と考えてしまいそうな瞳は、ロイヤルパープルを彷彿とさせる魅惑的な美しさだった。

きらりと光を反射する様はどう見ても宝石そのもので、私と同じ素材のものとはとてもじゃないが思えない。時折腕や足からちらりと見える刺青さえ、繊細な美しさとは相反しているのに妙な神々しさを感じるのだ。
花のような可憐さを纏いながら、確かな凶暴性を孕んでいる。一体この人物は、何者なのだろう。






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