その感情に名前は付けられない
あの頃の自分にとって、名前という名の同級生は、狭い周囲の中でも一際存在感があって、すんなりと自分の傍に入り込まれ、一緒にいて居心地のいい子だった。
彼女とボクの関係性は一言に表現するのは難しかった。ただの同級生?いや、それだと他人感が増している気がする。それとも友人か?確かに沢山の話はしたが、遊びに行ったり学校外で会ったことなどなかった。
だとしたら、あの一時に何て名前を付けたらいいのか見つけることはできない。……いや、それを今更考えても無駄なだけだ。
――組織に入る少し前の事。あの頃のボクはまだまだ母親譲りの黒髪で、退屈な授業を受けて学校が終われば、そのままタクシー(荷物泥棒)のバイトか、気晴らしに街に出るような生活リズムを送っていた。
そして、一週間の半分は纏わりついてくる女子達を追い払ったりと嫌気が差していた日常だった。すぐに何もかも放り投げて、ギャング組織に入ろうかと何度も思ったが、すぐに足は立ち止まった。
きっとまだ自分の中で、全てを投げ捨てて行く覚悟と、上へと押し登る力がない事を薄々気がついていたのかも知れない。
そんなもどかしい毎日を送ってたある日の事。ボクは5限目の授業終了を知らせたベルと共に、教室を飛び出し身を隠せそうな場所で人気がなくなるのを待った。今日は一人でのんびりと本を読みたい気分なのに、また女子に捕まったら厄介だったからだ。
普段使われていない古い教室のせいか、部屋の隅には蜘蛛の巣が張られ、どこかカビ臭さが充満していた。お世辞でも綺麗だとは言えないが、周りの世界から切り離されたみたいにとても静かで、誰にも邪魔されずに本を読むのにはうってつけだった。
今まであまり学校内の事など気にしても居なかったが、なかなか良い居場所を見つけられたかもしれない。機嫌を良くしたボクが、部屋の隅にあった椅子に手を付けようとした時だった。
フワリとそよ風がボクの頬を掠めたのだ。どこから風が通ったのだろうか?後ろを振り返りドアを見たが、しっかりとドアを締めたのは自分だ。それなら……窓に目を向けると、今度は強い風が吹いて窓を隠していたカーテンが勢いよく捲りあげた。
「はっ…………!」
なんでずっと気が付かなかったのだろう。少し高さのある出窓には、少女が壁により掛かる姿勢で座っていた。だが、すぐ近くにいるボクなんて居ないかのように、その視線はぼんやりと外の景色を眺めていた。風が吹き込んでいたのは、その女子が開けたからなのだろう。
フワッと押し広がるカーテンがまるでベールのように見え、リボンのように靡かせているその髪の毛にボクは何故か目が離せなかった。いや、髪の毛というよりもその女子に対してなのだろう。
見たところは僕と同じぐらいの歳にも見えた。だけど、今までこの人を見かけた覚えがない。単純にボクが他人に興味を持たなかったからかもしれないが。
「……んっ?」
惹き込まれるような雰囲気を持つ彼女を、ボクはずっと見つめていた事に気がついた。ほんの数秒か、それとも数分もだったかわからない程に。その女子は外を見るのに飽きたのか、ようやくボクに目を向けた。
驚く素振りもなく、その女子はボクを見て不思議そうに声を漏らし首を傾げた。ボクは目が合ってしまった事に酷く慌ててしまって、"えっ"とか"あっ"とか言葉に出来ていない音を出して狼狽えた。さっさと立ち去ればよかったのに、不躾にジロジロと眺めていた事に気まずさを感じた。
「何か御用?」
彼女の声調は淡々としていたが、別に怒っている様子でもなかった。それでもボクは何も言えず、彼女の足に視線を落とす。無防備に晒された彼女の裸足は、煤で少し黒ずんでいた。
「えーと……邪魔しちゃって申し訳ない」
「ん? あぁ、別に気にしなくていいよ」
歯切れの悪いボクの返事に、彼女は本当に気にしていない口調で言うと、フワッと出窓から飛び降りた。そこそこの高さが合ったのに、ずいぶん身軽な子だった。
呆気にとられているボクの横を通り過ぎると、彼女は黙々と靴下と靴を履いていた。どうやら机で死角になっていたらしく、靴が置かれている事も気が付かなかった。
「それじゃ、バイバ……」
「ねぇ、待って」
自分でもどうして呼び止めてしまったのかも理解できない。去り際の挨拶をする彼女の腕を思わず掴んでしまったのも。だが、そんな事をしても彼女は怒るどころかムッとした表情さえもしなかった。ただボクの言葉が出されるのを待っていた。
「貴女の名前は……?」
「私? ……私は名前。そうね、一応君の名前も聞いておこうかな?」
「ジョルノ・ジョバァーナです。たぶん貴女と同学年かも?」
緊張で声が上擦ってしまったのが恥ずかしかった。頬が熱くなってくる感覚に、柄にでもないと手で顔を覆ってしまいたい羞恥心が襲う。
「そう、暖かそうでいい名前ね。それじゃあ……チャオ。ジョルノ」
少し控えめな笑顔を浮かべ、彼女……名前は教室から出ていってしまった。『暖かそうでいい名前』だなんて、結構ありきたりな褒め言葉だし、元の名前をイタリアでも呼びやすいように変えただけの名前だったのに、どうしてボクは嬉しいと思えたのだろう。
心の奥がムズ痒く、行き場のない気持ちに翻弄されながらも、また明日も会えるだろうかと期待していた自分が居た。
名前と出会えるには、どうやら抜群のタイミングがいるらしい。それは彼女が気まぐれな性格だったからだ。
始めて出会った次の日、ボクはまたいつものように一日全ての授業が終わると、急いであの教室に向かった。……だが会えなかったのだ。しばらくしたらまた来るかな?と、ずっと待っていたが夕日が沈みそうになっても来なかった。仕方がなくボクは諦めて帰ったのだ。
お昼に学校が終わり、それから数時間も待つのは、流石にダルい。確かにイタリア人は国柄というか、基本的に時間にはルーズだ。個人個人は勿論だが、公共の乗り物や施設時間でも同じだったりする。
すでに数年は住んでいる国なのだから、さっさと慣れてしまえばいいのに未だに馴染めない。きっと母からの日本人の血が混じっているせいなのかも。
それから数日はその教室に足を運んでいたが、やはり名前とは会うことは出来なかった。学校内ですれ違うこともなければ、姿さえも見かけない。
もしかして彼女は幻だったのだろうか。……いや、幽霊扱いなんてそれは流石に失礼だ。他に考えられることがあるとすると、自分の居場所をボクに見つけられてしまったから、近づかなくなったとか?
考えれば考えるほど、マイナスな方へと進んでいく。
「あら、どうしたのジョルノ? 溜息なんてしたら幸せが逃げちゃうわよ?」
「ずーと考え込んじゃって、せっかく頼んだカフェラテが冷めてるわ?」
「うふふ、でもアンニュイなジョルノも素敵だよね」
気晴らしにと久しぶりに足を運んだバルで、運悪くいつも纏わりつく女子達に見つかってしまった。一度はいつものように追い払ったが、それでもしつこい女子達にボクは無視を決め込んた。
そして店員に注文をしたが、ずっと名前について考え込んでしまったらしい。遠くから聞こえてきた女子生徒Aの言葉で、ボクは一気に現実に引き戻された。他のBやCもキャアキャアと高い声を上げていて、そこでボクは頼んだカフェラテがすでにテーブルに置かれていて、すでに温かさがなくなっていた事に気がついたのだ。
「…………なぁ、君たちは名前って子を知ってる?」
元々興味のない人に話しかける事は好きではない。だが、もしかしたらボクがあまり知らなくても、同性の彼女たちなら何か知っているかも?と思い、仕方がなく話を振ってみた。
「えっ、名前?」
「いやーっ! ジョルノって名前の事が好きなのぉ? そんなの認めなーい」
「うるさいな。知っているか、知っていないかって聞いているんだよ。質問を質問で返すのは失礼だっての知らないの?」
耳を劈くような甲高い声に、ボクはやっぱり聞かなければ良かったと後悔する。
「名前って私達の同級生だよ? まぁ、悪い子ではないし、ちょっと変わり者だけど……ねぇ?」
「うん。そーだね。ああいう子ってなんて言えば良いのかなぁ? あの子っていつの間にか居なくなってたりするし」
「えぇっと……所謂『一匹狼』とかいうやつ? 名前は誰ともつるまないし、学校が終わったあと何をやっているのかも、何処に住んでいるのかもわからないし」
「あっ、住んでいる所は寮みたい。部屋から出ていく所を見た子がいるからさ……」
女子たちはボクの事をそっちのけで、話をどんどん進めていく。情報を出してくれるのはありがたいが、聞いてきた張本人を置いてけぼりにするのはどうなんだろう。女子が苦手なのはこういう部分ってのもある。
でも、どうやら名前は幻想でもボクだけにしか見えない幽霊ではないらしい。そこはひとまず安心した。
「ごめんジョルノ。私達、名前についてはあまり詳しくないみたい。寮暮らしで、気がついたら居なくなっているような自由気ままな性格で、同級生の子としか知らないわ」
「ふーん、そう。情報くれて感謝するよ、ありがとう。それじゃあ、もう用件はないからさっさとどっか行ってくれないか? 一人でのんびりしたいんだ」
少ない情報量ではあったが、ないだけでもマシだった。ボクは一応満足すると、いつまでも離れていかない女子たちを追い払った。酷いとか文句が聞こえたが、諦めて居なくなってくれてよかったと思ったのだった。
僅かな情報を得られてから更に数日が経っていた。ほんの数日程度の事だったのに、ボクの心には細かい引っ掛かりが沢山できていて、勉強にも手がつかず授業中も上の空。
14年間というまだまだ短い人生ではあるが、これほど会いたいと思い焦がれる事はあっただろうか?写真のみの声も知らぬ実父でさえも、会えない事に苛立つ事はなかったのに。
また今日も行ってみようと、ボクは周りの喧騒に溶け込むように授業が早く終わることを願った。
――少しガタがついた扉を開くと、フワッと風が頬を擦り去った。あの時と同じ優しい風だ。
締め切っているカーテンはパタパタと波打ち、無防備に晒されている細い足首が目に入った。
「……やぁ、久しぶりだね?」
やっぱりボクの声は上擦ってしまっていた。会いたいとずっと思っていた気持ちが先走っていたのだろうか。ボクの声に気がついたのか、名前はゆっくりとこっちを見てピタッと目が合った。
やはり彼女の瞳は美しいと思う。始めて見たその時から思っていたことだ。だが、それと同時に更に緊張もしてしまう。
「確か……そう。ジョルノだ。久しぶりだね」
目を細め、口角を上げて微笑む名前に、ボクの胸に感じたことのない痛みが走る。その痛覚は短いけれど、切ないけれど苦しくはなかった。
「うん。ボクにとってはずいぶん久しぶりに感じる」
「そう? いや、そうかもね。私、ここの教室来たのも久しぶりだったから」
久しぶりに来たというなら、会えなかったのも納得だ。ずっと待ち構えていても、当の本人が来なければ会えるはずもない。
「ねぇ、ジョルノもここから見る中庭が好きなの?」
「えっ……?」
唐突に質問された事に、ボクは一瞬狼狽えた。名前はそんなボクの様子から察したのか、ちょいちょいと手招きをしてボクを窓際まで呼んだ。
「私、ここから見下ろす中庭が好きなの。程よく木とか花があるのも、ベンチで楽しそうに話している子達を眺めたりするのも好き。それで時間が経つに連れて、色合いというのが変わるのも好き」
"何もかも忘れてここで時間を過ごすのが、私のストレス発散法なの"と続けて言う名前につられて、ボクも窓から下を覗き込んだ。
「……そうだね。確かに悪くない光景だ。でも、ボクはここで本を読む方が性に合っているのかも」
少し高い出窓によじ登り、ボクは名前と向かい合うように反対側に座った。驚いた様子の名前が、どこか面白くてボクはついつい笑ってしまった。
「あっ……やっと笑った」
「うん、その、恥ずかしい話。君と話そうと思うと緊張しちゃってね」
「そんなに私って怖い?」
「いや、そうじゃあないんだ。その、……ずっと名前と話をしてみたいって思っていたから」
"それで、ついつい身体に力が入っちゃったんだ"と、付け足すように言うと、名前は楽しそうにクスクスと小さく笑った。
「いいよ。人と話すのも嫌いじゃないからね。まずは、何の話からしようか……?」
悪戯そうな顔をして笑う顔に、また胸がドキッと締め付けられた。吹き付けていた風は止み、羽ばたいていたカーテンは外と遮断するように幕を閉じた。
狭く静かな空間は、ボク達だけの声と笑い声だけで満たされていた。
それからボク達は、まるで今まで出会えていなかった時間を埋めるかのように色々な事を語り合った。……語り合ったと言っても、別に堅苦しい事を話していたわけではない。
お互いの好きな食べ物とか、好きな本とか、趣味の話とか。そういう緩い話ばっかりだった。そんなくだらない話ばかりでも、ボクにとっては驚くぐらい楽しい時間だったし、憂鬱で騒がしい授業だって名前と後で会えるんだと思えば、苦でもなかった。
穏やかで、心休まる日々が続く中。ボクが15歳の誕生日に身体は急激に変化した。母譲りの黒髪と灰色掛かった黒い瞳だったのに、髪は驚くほどの真っ黄色で瞳は透き通るような緑にと変わっていた。
鏡に映った自分は、写真に映る父の面影があった。サラサラだった髪が急にくせ毛で長くになったりして、それはもう大変だった。いや、それよりもここまで外見が変わってしまった自分に、果たして名前は受け入れてくれるかと心配になった方が強かった。
だが、それはボクだけの杞憂で、姿が変わって初めて会ったボクをボクだと気がついてくれた。
「名前の通り、凄く暖かそうになったわねジョルノ!」
自分だけに見せてくれる屈託ない笑顔を浮かべ、くせ毛で困っていたボクの髪の毛を器用に結んでくれた。後ろは三編みで結び最後をクルッと丸くし、前髪は渦のように丸めたのを3つ並べたスタイルだ。
最初はおかしくないか?と何度も鏡で確認していたが、すでにボクの髪型はこのスタイルで馴染んでいる。
時にはいつの間にか使えるようになったマジックで驚かせ、時には彼女の誕生日に細やかなプレゼントを送ったりした。外見が変わっても、ボクと名前の関係はずっと続くと信じていた。
――しかし時間や運というのは残酷だった。あの日、空港で日本人の高校生と出会った時からボクの人生は大きく動いてしまった。たった一週間程度の期間だったのに、ボクの止まっていた足取りはあっという間に進めざるを得なかった。
死闘の末、ボクが学校に行かなくなってしまってずいぶん日にちが経ってしまった。仕事を一段落し、ボクは学校が終わる時間を見計らってあの教室にへと足を運んだ。
"しばらく学校を休む"など一言も告げられなかったから、怒っているだろうか?そう考えながら教室を開いても、風が吹いてくるどころかただの寂れた空間だけが広がっていた。妙な胸騒ぎがして、ボクは自分の学年を担当する教師を見つけると慌てて呼び止めた。
「あー……名前か。実はな、彼女は急に学校に来れなくなってしまってな。本当に急すぎて、誰も事情を知らないんだ。勿論先生や学校側も……」
どの教師に尋ねても、誰も名前の行き場所を知らなかった。自由気ままな彼女らしいと言えばそうだが、ボクの胸の中は激しい虚無感でいっぱいになる。
『このジョルノ・ジョバァーナには、夢がある! ボクは……ギャングスターになります!』
『よっ! いいぞ! じゃあ、どっちが先に夢を叶えられるか競争だよ? 勝者には有名店のジェラートをご馳走……』
『ギャングスターの男に、そのへんのジェラートをご馳走だって?』
『それじゃあ、贅沢に全種類ってのはどう?』
『そういう問題じゃあ……まぁ、いいか。それはそれで楽しそうだ。』
かつて互いを夢を語り合った日、ボクはいつかの為にと予行練習をしていたポーズを決めれば、名前は楽しそうに笑っていた。
競争しようと言ったのに、これでは結果が言えないじゃあないか。数々の思い出が頭にちらつけば、胸はギリギリとした痛みが走った。
大事な友人を無くした苦しみか、それとも……。
あぁ、そうか。ボクは名前の事を……。一つの答えが浮かんだが、ボクはそれを消し去った。もう二度と会えない彼女に、この想いを抱くのは無駄なんだ。
あの教室にうしろ髪を掴まれる思いをしながら、ボクは二度と来ない学校を去った。
終
あとがき
アップルパイ様から頂いた『ジョルノとの切甘』というリクエストから書かせていただきました。特に細かいお願いはされていなかったので、一から話を作りました。
今回の夢主はジョルノの同級生です。彼女は決して悪い子ではないし、人嫌いではないのですが一匹狼みたいな性格です。ジョルノは金髪になる少し前の黒髪で、まだ人に対して警戒心が強く、あまり関わろうとしませんが、そんな彼が夢主に無自覚な一目惚れをします。
ジョルノにとっては初恋ですが、それを本人が気がつくのは夢主がいなくなった時という落ちです。かなり端折りましたが、今回もネタ帳の方で書きます。
ちょっと回りくどくなってしまったかなと思いますが、いかがでしたでしょうか?
アップルパイ様、リクエストありがとうございました。今回もお楽しみいただけたら光栄です。
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