アンケート小説 | ナノ


▼  プロシュート

「幸せになってください」
 言葉の意味がわからず微動だにしないオレに、名前は穏やかな表情を浮かべながら『幸せになってください、プロシュートさん』と、同じ言葉をゆっくり繰り返した。

――名前と出会ったのは、ちょうど1年前の3月だった。
 街にはいたるところに目が映えるミモザの黄色で彩り、頬を撫でる風は優しかった。
 一歩一歩と春の足音が聞こえてきそうなその時期に、オレは任務後の気晴らしで来た公園で、芝生の上に座る女に目を奪われた。
 女は柔らかい緑の芝生に座りこみ、薄いピンク色のブックカバーを付けた本を読む事に耽けていた。
悪くない顔立ちだが、特別な美人っていうわけでもない。ただ、なにか惹きつける存在感ってのがあったのだ。
 ロング丈のプリーツスカートから伸びた細い足には、本来あるはずの靴はなく、ご丁寧に揃えて身体の横に置かれていた。羽織っていたカーディガンの一番下のボタンは、よくよく見るとボタンが取れたのか、その場所から止めていただろう糸が飛び出している。極めつけには艶やかさで清潔そうな髪の毛も、後頭部にはピョンと一束の寝癖ができていた。
 この点を取り上げると、ずいぶん細かな身だしなみができない女だと印象がつく。だが、不思議な事にオレはその短所が逆に長所だと思えてしまった。
 例えて言うのなら、『ミロのビーナス』や『サモトラケのニケ』みたいに両腕や頭部が欠損した美術品は、その無くした物に様々な想像やロマンを巡らせる魅了を持っているのと同じように、オレもこの女にそういう想像を巡らせていた。見てくれは悪くないんだから、ちゃんと身なりを整えて化粧をさせれば、きっとイイ女になるのだろう。
 あのブランドから出ている服を着させて、あの色の口紅をつけて……と、暇つぶしの一時として女をまじまじ見つめて妄想を膨らませるが、すぐにそんな自分の考え自体が軽薄で間違いだと気が付かされた。
 もしも、……もしも考えていた事を実行させてしまったら、逆にこの女の魅力が無くなってしまうのではないのだろうか。そもそもさっき例に上げた美術品たちも、自分の想像通りに付け足しをしてしまったら本来持っていた魔の魅力はなくなってしまうのだ。
『だらしのない不完全だと思わせる点が、実は完全された姿だ』
 オレは頭ではなく心でそれを理解するのと同時に、雷にでも打たれたかのような強い衝撃が走った。どんな事でも常に完璧で、高みを望むことが美しく、至高の生き方だと思っていたオレとは全くの正反対だったからだ。
 積もり積もる好奇心と不完全な美を持つ女に声を掛けてみようと思ったら、すでにオレは声を掛けていた。……しかし、声を掛けてみたがやはり女は気が付かなくて、オレに気づいて目線を寄越したのは結局呼びかけた4回目の事だった。
「あんたは一体何なんだ? こんないい男が熱い視線を送って声を掛けているのにも関わらず、気づきもしない。……今だってまるで動物でも見ているかのような視線だしよ。本当に変な女だなッ!」
 それは苛立ちからだったのか、それとも胸の隅に置いておいた疑問だったのだろうか。慌てたり驚いたりもしない、顔を見て頬を赤らめることもしない。ただ、なんだか珍しい動物でも見るかのような目で見てきた事に、オレの内側にあった何かが弾けたかのように一気に吐き出した。
 だが女は、初対面の男にいきなり大声で捲し立てられても、怯える様子もなくただ不思議そうにしていただけだった。

 名前はだらしないというか、本当に変わっている不思議な女だった。名前を聞き出してなんとか連絡先を交換するまではこじつけたが、彼女から連絡が来たのは出会った一ヶ月後だった。
 それとなく期間が空いた理由を聞き出すと、なんと連絡先を書いた紙を紛失したからだった。見つけ出すことができたのは、あの時に読んでいた本を読もうとして開いたら出てきたんだと。
 それを聞いて、オレは思わず笑ってしまった事を今でも覚えている。気に入った女を見つけても、ほとんどの女は積極的に関わってくるし、連絡先を交換しても自分から電話を掛ける真似などした事がない。登録されていない番号はほとんど名前も禄に覚えていない女ばっかりだった。
 こんなに女で困らないオレの連絡先を、本の栞代わりにしていたなんて聞いたら笑うしか無いだろう。蔑ろにされたという怒りとか呆れとか不快な感情はなくて、一ヶ月越しにようやく電話を寄越してくれたのは素直に嬉しかった。
 今に思えば、オレは最初から名前に惚れていたのかもしれない。無自覚な一目惚れというやつだろう。ほんの数分で電話を切ろうとしたり、食事の誘いを二言返事で断ってくる名前と距離を縮める事はなかなか難しかった。普段ならそんな面倒くさい女はごめんだとすぐに他へ目を向けていたが、オレは凄く意地になっていた。だけれど、絶対逃したくないという野心的な雰囲気が怖かったのか、オレの気持ちに反比例するかのように名前から逃げられてばっかりだった。
 そんな鬼ごっこからさらに一ヶ月が経つ頃に、オレの本来持っていたプライドはボロボロになっていた。仕事面では影響ないようにはしていたが、プライベートは散々でもうヤケクソになっていたのかもしれない。
 我慢の限界でオレは『直接、話を聞いてほしんだ』と名前に電話をして、出会った公園に来て欲しいと呼び出した。あいつの事だから、電話の後に昼寝でもしてるのでは?と不安を抱えてオレが公園に来ると、すでに名前はあの日のように芝生に座り込んでいた。杞憂でよかったと思いつつ、名前の前に立ちはだかると『こんにちは』とのんびりした口調で挨拶された。
「……オレと友達になってくれっ!」
 異性との友情を鼻からバカにしていたオレが、成人越えたのにも関わらず頭下げて女相手の友達を作ろうとしているのを、誰が信じるだろうか。
 この唐突な言動に、流石に名前も驚いた表情を浮かべた。なかなか顔をあげようとしないオレに、名前は酷く焦った様子を見せた。畳み掛けるかのように頼むオレに根負けしたのか、『いいですよ』との返事に俯いたまま思わずニヤリと笑った。

 オレたちは恋人というわけでもなく、友情と呼ぶのも不思議な感じがする関係だった。友人のわりには、名前は常に敬語だったし『プロシュートさん』ってわざわざ『さん』付けで呼んでいたり堅苦しい部分もあった。
 だけど映画館で新しい映画が始まると二人で観に行ったり、名前が好きそうな本を見つければ教えてやったりと、友人同士がするようなやりとりもした。向こうも悪く思ってないようで、時々遊びの誘いを持ちかけられることもあった。いつも二人で過ごす時間は、ほんの一時だけだが荒んだ生活を忘れさせてくれるほど楽しかった。   
 下心が無かったと言えば、それは嘘になる。実際名前が昼寝をしている時に、軽くキスをしてしまった事はあった。だけど、それ以上のことをして名前を傷つける事をしたくなかった。友人関係だと安心させといて、それを裏切る事はオレの信条が許さない。それに……なにより春のように穏やかで、一緒に居て心地よく気を張らないこの関係も崩したくはなかった。

――そんな互いにいい関係でいたいと思っていたが、それも長くは続かなかった。
『悪いけれど、なんでもいいから昼飯を食わせてもらえないか? 仕事で食いそびれちまったんだ』
 とある日、昼食から夕食を取るまでの微妙な時間帯の時に、オレは名前に連絡を取った。飯を食うのにも、日曜日のこの時間帯は大体どこの飲食店も閉まっていた。アジトに戻ってからでもよかったが、現在いた場所からだと名前の家が一番近かったのだ。名前は急のオレからの頼みでも『簡単な物しかないけれど、いいですよ〜』といつも通り、どこか抜けた声で承諾してくれた。
 焼きすぎて焦げたトーストに、クルトンなしのコーンポタージュ、簡単なサラダを名前は出してくれた。トーストは焦げ茶色どころか黒に近い色まで焦げていたけれど、焼いた本人は気にしてなさそうな所が名前らしいと思った。
 有り難くそれを全て平らげると、名前は珍しく神妙な表情を浮かべてオレの顔を見ていた。どうしたんだ?とオレが口を開くのより先に、名前が喋った。
「幸せになってください」
 言葉の意味がわからず微動だにしないオレに、名前は今度は穏やかな表情をしていた。
「幸せになってください、プロシュートさん」
 と、同じ言葉をゆっくり繰り返した。
「……どういう意味だ?」
「今だから言えます。プロシュートさんは、綺麗だけどそれ以上に怖い気持ちが強くて最初はビクビクしてました。……だけど、本当は優しい事を知れたし、色んな場所に一緒に遊びに行けて凄く楽しかったです。大げさかもしれないれど、一番楽しかったし友人になれて良かったし……人生で一番幸せだと思いました」
「思いましたって、それじゃあ過去形じゃあねぇか……」
「だから、プロシュートさんには私以上に幸せになって欲しいんです」
 名前のその口振りはまるで、今日が最後だと言いたそうであった。しかし、その言葉からは別にオレの事を嫌いになったわけではなさそうだった。それともオレかまたは自分を傷つけたくなくてそんな事を言うのだろうか。
「……オレと一緒に居るのが嫌になったか?」
 名前はオレの問いかけに勢いよく首を横に振って否定する。じゃあ、どうしたんだという次の質問をすれば、名前はいつも通り穏やかだがどこか寂しそうな顔をしていた。
「私、もうすぐ死ぬんです」


 街外れにある教会に、名前の墓はひっそりとあった。よく手入れがされた墓標の前に、柔らかな緑のアッセンチオ(ヨモギ)、小さな花が愛らしいミモザ、薄いピンク色のシャクナゲを添えた。流石にアッセンチオは花屋には売っていなかったので、道端に生えているのを必死に探した。どれも春の花であり、名前と出会った時を思い出す色合いをしている。
 名前が死んだのは、身体どころか心まで冷えてしまいそうなぐらい寒い冬だった。
 名前がどんな病気だったのか詳しくは聞かなかったが、オレと出会った時にはすでに病に侵されていた。発見が遅く、まだ若いために病気はだいぶ進行して残りの寿命が近いと医者から宣告されていた。少しでも食い止めるための入院を勧められていたが、身内も友人もいないから長生きしたくなく自宅にいる事を決めた。残りの時間を読書に打ち込んでいた時に、オレと出会ったんだと名前はポツリポツリと教えてくれた。そんな状態でよく遊びに行けたもんだと言えば、まだ身体は動く状態だったし悔いのないようにしたかったからと微笑んでいた。オレの幸せを願った日から、日に日に目に見えてわかるほど弱り、とうとうベッドから動けなくなった名前をオレは時間が許す限り最後まで支えた。申し訳なさそうにしていたが、友達だろって押し切った。最後の安らかな死に顔を看取り、教会にお願いした。
 こんなオレの幸せを願い、自分の分まで生きて欲しいと願う名前の意思を無駄にはしたくない。薄汚い生業だが、オレは日々を生きている。
「そういえば…………焦げたトーストは苦かったくせに美味かったな……」
 不意にあの時のトーストを思い出し、誰に言うわけではなくポツリと呟いた独り言は春の風に紛れて消えた。


 

「幸せになってください」から始まり、「焦げたトーストは苦かったのに美味しかった。」で終わる:お題ったー『こんなお話いかがですか』より



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