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――ここは地獄か、天国か。

朽木家二十八代目当主・朽木白哉の妻である朽木唄は夫に抱かれながらも、冷静にそんなことを考えていた。

唄の幼馴染であり、家同士が決めた結婚相手でもある朽木白哉。腐れ縁だが彼に対する恋愛感情はない。それでも彼女たちは、円満で真っ当な夫婦関係を築くことができている。

一週間に一度行われる子を成すための行為に、性的快楽はあっても特別な感情を抱いたことはない。朽木家に嫁いでから早数ヶ月。今となっては最早朽木家当主の妻としての責務であり、ルーティンワークのようなもの。それは恐らく朽木家当主の朽木白哉にとっても同じことで、性行為とは「跡継ぎを生むための手段と性欲の発散」であり、それ以上でもそれ以下でもない。政略結婚にも近い貴族同士の結婚なんて、大体そんなものだ。……唄はそう思っていた。

二人の関係性が一変したきっかけは、昨晩の白哉の行為だった。彼は唄を抱いている時、彼女に口付けようとした。その時の夫の表情を思い出し、自然と顔が熱を持ち始める。

「珍しいこともあるのね。」

唄はそう言って、近付いてくる白哉の口元を両手で覆った。彼女の口から零れた言葉は、純粋な驚きによるものだった。唇と唇を重ねる行為は何も生み出さない。ただ単に、男女が愛を確かめ合うための行為だ。自分の最愛をかつての妻――朽木緋真に捧げた白哉のことだ、無意味で生産性のない「口付け」という行為を緋真以外の者に向けることは決してないだろう。そう思っていた唄は、生半可な気持ちで彼の行為を受け入れることに些か抵抗があった。

妻の抵抗を受けた白哉は、少しだけ目を丸くする。

「……何故、拒む。」
「えっと……キスするのは、なんか、ちょっと……」

唄は口籠る。ちょっと違うと思う。そう口にしようとして、自分の異常性に気付いたからだ。

非処女のくせにファーストキスもまだな女って、色々おかしくないか?それに今ここで彼を拒めば、自分は一生キスの味を知らぬまま生きていくことになるだろう。別に拒む理由などないじゃないか。お互いの体を知り尽くし、中まで暴かれ、触れられたことのない場所もない。行為中の口付けなど、本番を円滑に進めるための延長線上にあるものだろう。
世の中の大部分の夫婦は、きっと性行為をする仲であればキスだってする。だから白哉のしようとしている口付けにきっと深い意味はない。……だけど、ここで彼からの口付けを甘受してしまえば、何かが変わってしまう。そんな確信が彼女の中にはあった。

「……そろそろ、誤解を解いておくべきか。」

白哉はゆっくりと体を起こし、眉間を押さえて小さくため息を吐く。唄ははて、と首を傾げた。解く必要がある程大きな誤解に全く心当たりがないからだ。

「誤解?」
「お前を好いている故の行為だ。」
「え、何が?」
「お前を抱くのは、子を成すためというだけではない。」
「え!?」
「私は愛を確かめ合う為の行為、と捉えている。」
「は!?」
「お前を愛している故の行為だと申している。」
「愛!?」

白哉の一世一代の告白を受けた唄は、素っ頓狂な声を上げる。情事中の女性が出して良いような声ではない。愛、愛、と口の中で言葉を反芻し、暫くの沈黙の後。白哉の気持ちを理解した彼女の顔は、みるみるうちに紅潮した。

朽木白哉は、唄が知る限りでは一番の愛妻家だった。彼の幼馴染として、前妻の緋真に注いでいた愛情を近くで見てきたからこそ彼をそう評価した。後妻として自分を娶った後も、その愛情は緋真にのみ向けられるものだと思っていた。
そんな白哉が、自分への気持ちを口にするにあたり「愛」という言葉を選んだ。彼が軽い気持ちでそんな言葉を口にする訳がないということは、唄が誰よりも理解している。だからこそ彼女は、今自分の身の上に降りかかる「愛」の重さを思い知ったのだ。

「白哉、私のこと恋愛的な意味で好きだったの!?」
「……やはり、気付いていなかったのか。」
「いや、だってそんなこと言ってくれなかったじゃん!」
「そうか。ならば今から教え込むとしよう。」

――そこから先はよく覚えていない。あまり思い出したくない。

触れる指の一本一本に込められた男の欲望を、愛の重さを、自分に対して向けられる劣情を、全身に浴びせられる。無味無臭だったはずの行為が、甘美な蜜の匂いを帯び始める。幼馴染であり、兄のようでもあり、心身共に見知ったはずの男が今では全然違う男の人に見える。白哉の心を知ってしまった今となっては、密着した肌から伝わる彼の体温は何よりも饒舌に愛を語り、彼女は泣き叫びたくなるような羞恥の中で果てた。







「ええと、唄。帰らなくていいの?」
「ん。プチ家出なう。」

その日の夕刻。唄は気心知れた友人の家にいた。朽木家当主の妻が護衛も付けずにふらふらすることは本来許されたことではない。帰ったら白哉に叱責されることは目に見えている。今回唄が避難先とした友人は、先ほどから何度も私が朽木様に怒られちゃう、と小言を漏らしている。白哉の非難が自分にまで及ぶことを恐れているのだ。

そんな彼女の気も知らず、唄は頬杖をついて明後日の方向をぼんやりと眺めていた。

白哉に抱かれること自体は嫌ではない。初めての夜、子を成すためと碌な前戯も無しにいきなりぶち込まれたらどうしよう、と心配したこともあったがそれは杞憂に終わった。行為中の白哉は意外にも優しく、前準備もきちんとしてくれたし、そのお陰で痛みをあまり感じることもなく初めてを捧げることができた。だから唄は、白哉と体を重ねることがそこそこ好きだった。

今日の朝、唄の隣に白哉はいなかった。枕元の時計を見て、自分が寝坊したのだということを悟った。きっと必要以上の時間行為に耽っていた代償だろう、昨晩の疲れがまだとれていなかった。白哉はきっと、そんな妻の身を案じて寝かせたまま出立したのだろう。

今になってわかる。情事中の彼が優しかったのは、その行為自体を愛する女性とのコミュニケーションと捉えていたためだった。――つまり、これまでの数ヶ月間。白哉は快楽に溺れる私を見て、可愛いとか、愛らしいとか、そういうことを思っていたのだ。そう気付いた瞬間に胸の中から沸き立つ感情を抑え込み、必要最低限の身支度をして家を飛び出した。こうして無我夢中で貴族街を走り抜け、辿り着いたのは気心知れた友人の家だった。

「で、結局どうするの?」

唄の友人は、家出した自分の友人を気遣う気持ち半分、非日常的な恋バナの野次馬精神半分で問いかける。政略結婚が大半の貴族界において、このような恋バナは大変貴重なのである。それも四大貴族の一つ、朽木家にまつわる話と来た。

唄は暫しの逡巡の後。言葉を選ぶように、慎重に口を開く。

「……白哉のことは、恋愛対象として考えたことなかったから……わからない。」

わからない。今後どう彼と向き合うのかも、自分の気持ちについても。その一言が全てだ。だが、このまま煮え切らない態度のまま白哉との結婚生活を続けることが良くないことであるというのは、彼女にもわかっている。答えを見つけ出さなくてはならないだろう。

「……何で私ばっかり、こんなに悩まないといけないのよ。」

少しばかり感情的になった唄の口から、ぽろりと本音の断片がこぼれ落ちる。彼女の一言に、友人は思わず反論する。

「私ばっかりって……それを言うなら、きっと朽木様も同じことを思っているはずよ。」
「え?そう?」
「朽木様がいつから唄に対して恋愛感情があったかわからないけど……一向に歩み寄ろうとしないあなたにヤキモキしてたからこそ、好意を伝えて下さったんじゃないの?」

それは、まあその通りだろう。白哉と唄の結婚生活は順風満帆ではあったが、少なくとも唄はその生活に色恋を求めることはなかった。そして確認するまでもなく、白哉も同じ気持ちであると思い込んでいる節があった。もし白哉に恋愛感情があったのだとしたら、唄の態度は非常に淡白なものに感じていたに違いない。

「……お互い恋愛感情なんてなかった。白哉も同じだと思ってた。」
「でもそれは違うって、あの不器用な朽木様が自らおっしゃられたんでしょう?貴方想いの優しい方じゃない。」
「うん、白哉は優しいよ。私と結婚する話が出た三年前からずっと、一人の女性としての私と向き合う努力をしてきたんだと思う。」
「……ねえ、唄。あなたは何がそんなに不満なの?」

何が不満って、そんなの。唄は目を伏せてゆっくりと細長い息を吐き出す。

「それでもやっぱり、私ばっかりだから、だよ。」

彼女の物言いから何かのっぴきならない事情を察した友人は、それ以上何も言うことはなかった。







――今になって思う。私はきっと、地獄の中にいた。

「朽木家に、迎え入れたいと思っている女性がいる。」

白哉が少し前から流魂街の女性にお熱であることは、風の噂で聞いていた。

……が、まさかここまでとは思っていなかった。唄は彼の結婚報告に驚きはしたが、祝福する気持ちの方が大きかった。それは本当だ。朽木家の次期当主として常にストイックな朽木白哉が、貴族の掟を破ってでも手に入れたいと強く願った「唯一無二」。それならば、愛し合う者同士が結ばれることの方が美しいし妥当だと考えた。

朽木家と桜倉家は家同士の結びつきも強く、両家の間で婚姻が結ばれることはほぼ確実と思われていた。白哉と唄は互いに恋愛感情はなくとも仲はそれなりに良く、唄は自分が将来的に朽木家に嫁ぐことになるのだろうと、そう思って生きていた。

「白哉は私と結婚するんだと思ってた。」

唄は少しおどけた調子でそう言った。口にしながら、こんな軽口を叩けるのも最後になるのかな、なんてことを考えた。白哉は少し目を伏せ、その声色に申し訳なさを滲ませる。

「本来であれば、そうなっていたであろう。」

途端、胸の中がスッと冷え渡る。自分との関係を過去形で話すその男が、とても遠い存在に思えた。

端的に言って、すごくモヤモヤする。……ああ、なるほど。自分にとって一番だと思っていた男にとって、一番が自分ではなかった。私はそれが寂しいんだ。

その感情は彼女の心の大部分を占領していた。これは「本来であれば」いずれ立派な恋心に育っていたであろう、初恋を宿した小さな芽だった。

――そう、本来であれば。白哉があの日流魂街を訪れなければ。あの日あの場所に緋真がいなければ。白哉はこの身を焦がすような恋と出会うこともなく、同じ貴族の桜倉家の次女……私と結婚してその数年後に子を授かり、世間の風当たりも気にせず、順風満帆な結婚生活を送っていただろう。遠からず近い未来に訪れるはずだった幸せな生活は、泡となって消え去った。

だけどそんな見苦しい「もしも」に縋って生きていくなんて、私はまっぴらごめんだ。唄は自分の感情を押し殺す。育ちかけの芽を引っこ抜き、握りつぶして、なかったことにした。前に進むことを、選んだ。

緋真は元々体が弱く、先は長くないであろうことはわかっていた。きっと世継ぎも望めない。だったら緋真が亡き後に、身分相応の者と正式な婚姻を結ばせれば良い。きっと朽木家の者は、そのようなことを考えていたのだろう。死神にとっての五年間は短く、それでも彼女が彼の心に残したものはとても大きい。そんな彼を一番近くで見てきた唄は、白哉が後妻を娶ったとしても緋真以外の女性を愛するところが全く想像できなかった。

……だからこそ、桜倉唄が朽木唄になったあの日から。彼女は夫に対して、心を閉ざしていたのかもしれない。自分の心を、守るために。




「え、今日もするの?」
「……嫌か?」
「嫌とかじゃなくて……」

その日の夜。一組の布団の上で、白哉と唄は押し問答を繰り返している。
夫が連日求めてくることは滅多になかった。このような行為は一週間に一度が通常のペースだったし、今日なんて昨日あんなことがあったばかりだ。気まずさから部屋が別々になる可能性すら考えていた唄だったが、現実はその真逆である。朽木白哉という男は、彼女が思っていた以上に貪欲だった。唄は昨晩の行為を思い出しては今晩の自分の身を案じる。肉体的にと言うよりかは、精神的に保つかどうかが不安だ。かと言って加減してくれと言うのは、彼に屈しているようで気が進まない。

「変に意識しちゃって、やりにくい……」

唄は恨めしげに白哉を睨んでそう言うが、白哉からすればそれすらも狙い通りである。

「やはり、伝えたのは正解だったようだ。」
「私は黙っておいてくれた方が楽だった。」
「……。」
「……まあ、好きにすればいいんじゃない。」

唄の突き放したような物言いに、白哉は眉を顰める。唄は敢えて彼の気に触れるような言い回しをしている自覚があったが、彼の逆鱗に触れるのが少しだけ怖くなる。
唄の心配は杞憂に終わった。白哉は眉を解かせ、いつもより少し柔らかい表情を作る。滅多に見ることのない、唄が一番好きな彼の表情だった。

「お前は私を、どう思っている。」

……酷い質問だ。唄はついつい顔に出そうになる感情を押し殺し、俯き加減に答える。

「考えたことなかったから、わからないよ。」

言葉を振り絞る。口の中がカラカラと乾く。たしか、今日の昼間にも同じ言葉を口にした気がする。どうして人は、一々感情に名前を付けたがるのだろうか。

「そうか。……では、考えて欲しい。」
「酷いよ、」
「……酷い?」
「考えないようにさせたのは、白哉じゃん。」

考えたことがなかった。
考えないようにしていた。

鼻の奥がツンとする。白哉は今一要領を得ない顔で、じっと唄を見つめる。わかってる。自分が勝手に好きになって、自分で勝手に失恋した。ただそれだけなのに。白哉は悪くないし、白哉の知ったことではないのに。

「それなのに急に好きだとか、考えろとか、何それ。意味わかんないんだけど。今更無理だよ。嫌だよ。」

今まで閉じ込めていた想いが込み上げ、じわじわと涙腺を刺激する。言葉を吐き出すと同時に、それは堰を切って溢れ出した。

ただの幼馴染だった白哉から形式的な求婚の言葉を投げかけられ、それを受け入れ、二人の関係が明確に変わってしまったあの日。唄は少しだけ怖くなった。生涯この男と添い遂げることを誓えば、私はきっと、彼に恋をしてしまう。
一瞬湧き出た感情を押し留めて心に蓋をする。彼が誰よりも大切にしている女性のことを、私は知っている。この男に本気で恋をしたところできっと幸せにはなれないのだ。自分の本能が、彼を受け入れることを拒んでいた。この身を捧げても、心だけは手放すまいと。

「唄。」

そんな彼女の決心を打ち砕くように、白哉は優しい声色で彼女の名前を呼ぶ。壊れ物を扱うように大事に抱き寄せ、背中をさする。たったのそれだけで、唄は自分はとても大切にされていたのだということを悟る。彼には彼女の気持ちの一割も伝わっていないのかもしれない。それでも自分一人のために流されたこの涙を止められるのは自分しかいないのだと、白哉はそう思う。

「……ねえ、白哉。本音言ってもいい?」
「ああ。」
「笑わない?怒らない?」
「……保証はできない。」

白哉らしい回答だと、唄は少しだけ笑う。少し怒られるかもしれないけど、愛想を尽かされることはないだろう。そう思えるようになったのは、彼の愛情を知ったから。

「私白哉のこと、好きになりたくないの。」
「何故だ。」
「……悔しいから。」

意地とかプライドとか、自分を着飾るつまらないものを捨て去って、振るえる声で吐き捨てる。

白哉と緋真が結婚した。誰よりも親しい幼馴染の門出を祝福した。「私も良い人を見つけるぞ!」と息巻いていた。数多の男に言い寄られた。誰一人として好きになれなかった。無意識にあの男と比較している自分がいた。そんな自分に気付かないふりをした。

……幾度となく、たった一人の男の存在の大きさを思い知らされた。叶わぬ恋に身を浸すことの苦しみが白哉にわかるのだろうか。そんな身勝手な想いとは裏腹に、漸く手に入れることのできた唯一無二のこの愛を手放したくないと、そう思ってしまう。

「……あのね、白哉。」
「何だ。」

甘えるように小さな声で名前を呼ぶ。唄はしっとりと濡れた瞳で、目の前の男の視線を絡め取る。

「私が白哉を忘れるの、どれだけ大変だったと思う?それなのに今更何?バカ。ドアホ。クソボケ男。どんなに頑張っても振り向いてくれない女に、死ぬまで固執してろ。」
「ほう……」

白哉は目を細め、目尻を少しだけ釣り上げる。己のために地獄を見たと言うのであれば、そこから引き摺り出すのも己の役目であると、そう物語るように。

「愛の告白か?」
「宣戦布告です。」

あなたを好きになんて、なってやらない。
地獄の中で、手に入らない女性のことを想って、私と同じくらい苦しめばいい。
一生私に、夢中になっていればいい。

唄は重い重い愛を吐き捨てて、男の唇を狡猾に奪った。


20231001