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先へ先へと、急ぎたくなってしまうのは、男の性なのだろうか。口から小さく零れた溜息は、夜の中に溶け出していった。私の半歩後を歩く唄の姿は、まるで親鳥を追う雛鳥のように小さく、健気で、弱々しかった。

つい一週間ほど前、桜倉家の娘である桜倉唄との入籍が決まった。元々桜倉家との交流が盛んだった朽木家である、私と唄の結婚は両家にとってとても喜ばしいものであった。勿論だが、そこには私の意思もきちんと含まれていたということをここで明確にしておこう。
唯一、この結婚を恐らく善しとしていない者がいた。唄である。幼い頃から、朽木家の次期当主である私に言い寄ってくる女は星の数ほどいたが、彼女ほど私に興味を示さない女は初めてだったのだ。彼女は子どもの頃から何でもできた。筝曲も、書道も、茶道も、華道も、舞踊も。ありとあらゆる場面で私の視線を奪っていくのは決まって彼女だった。それは憧れにも近い感情で、初恋だった。幼いながらも、胸に秘めていた身を焦がすような痛みが、今でも古傷のように疼いている。
これは後に知ったことだが、彼女は男性恐怖症だった。彼女が私に興味を示さなかった、否、示すことができなかったのは、おそらくそのためだったのだろう。

唄は才色兼備であるが故に、周りの期待を一身に背負うことになってしまったのだ。しかし彼女は人一倍繊細で、気の弱い女だった。周囲の目もあり、婚姻せざるを得なくなってしまったのだろう。唄は縁談が成立したあの日、不束者ですが、という貼り付けたような言葉を吐き出し、力なく笑った。

手に入れることに必死すぎて、彼女を傷付けてしまったのではないだろうか。私はあの日からずっと彼女のことを、腫物を触るようにして接してきた。あの日から怠らないように続けてきた夜の散歩の時間にも、風が吹けば寒くはないかと、少し歩けば疲れていないかと、食べ物屋の前を通れば腹を空かせてはいないかと。そのたびに、半歩後の彼女は小さく首を振って大丈夫です、と呟くのだった。
そして今日もこうして、特に言葉も交わさぬまま唄との散歩が終わりに差し掛かろうとしていた。仕事で忙しい私にとっては、一日の中で数少ない二人きりの時間である。この時間を大切にしたいと思っているのは山々なのだが、如何せん何を話せば良いのかが全くわからないのだ。唄もきっと気まずい思いをしているに違いない。全く、情けのない話だ。このような場合、私の方がしっかりと、これからの二人の道を築き上げて行かねばならないというのに。

しかし、何はともあれ彼女を我が妻に、という欲求は叶えられた訳である。では、手に入れたならば、その後は。本当は、今すぐにだって抱き締めてしまいたかった。抱き締めて、口付けて、そして。いずれ夫婦となるのだ、権力と立場に物を言わせ、衝動のままにしてしまうことだってできない訳ではない。しかしそのようなことをすれば、彼女は一生私のことを、自分を脅かす存在として心の中で拒絶しながら生きて行かなくてはならなくなるだろう。かく言う私も、彼女にそう思われることは避けたかった。おかしな話である。心は先へ先へと急ぐのに、未だに彼女に触れることすら、できていないというのだから。

「……白哉、様……」

か細い声が、私を呼んだ。一瞬反応することができなかったのは、彼女が私の名前を呼んだのはこれが初めてだったから。恐る恐る後を振り向くと、唄は強張った顔を隠すようにして俯いていた。彼女の色の白い顔が前に垂れる黒い髪で隠れ、夜の色と同化してしまった。

「……どうした。」

「少し、お話したいことがあるのです。……よろしいでしょうか。」

相変わらず、彼女の声は震えていた。おそらく悪い話だ、私は咄嗟にそう思った。肩に垂れる彼女の綺麗な黒髪が、そのまま夜の闇に溶けて消えてしまうのではないか。そしてそのまま彼女ごと呑み込んで、私の前から姿を消してしまうのではないか。そんな不安が一気に押し寄せた。

「……。」

「あの……白哉様?」

唄は恐る恐る顔を上げて私を見た。まるで怯えた小動物のような、蛇を見上げる蛙のような表情。眉毛が綺麗にハの字を描いていた。
現に、怖いのだろう。自分のことを異性として意識しているということが、明確にわかっている男だ。いつどこで何をされるのかわからない。男性が苦手な唄からしてみれば、一番警戒すべき相手なのである。

そうだ、彼女はきっと今だって、細くて今にも折れてしまいそうな二本足でしっかりと地面を捕らえ、逃げ出したい気持ちを必死に踏み止めているのだ。

「……それは、良い話か。それとも、悪い話か。」

「えっ……え?」

「悪い話ならば、聞かぬ。」

彼女の言葉を遮断した。彼女の声を、もっと聴きたいと思った。その反面、彼女の口から零れ出す一言一言が、とても怖い。彼女が口を開くたび、無意識のうちに身構えている自分。いつか拒絶の言葉が飛び出してくるのではないだろうか。そんな漠然とした不安があったのだ。彼女が嫌がることはしたくない、だが、彼女を手放すことはもっとしたくない。結局は、自分の我が儘である。

「……お前が私を恨んでいることは重々承知だ。しかし、此方からは一切手出しはしないことを約束する。」

「え、あ、違……」

「どうしても、と言うならば世継ぎの事なども気にする必要はない。故に……」

自分でも何を言っているのかと思う程、唐突で滑稽な話だ。この期に及んで自分の願望を彼女にぶつけてしまうだなんて。彼女の押しに弱い性格からしてみれば、また彼女自身に嘘を付かせた返事をさせてしまうに決まっている。

「白哉様、あの、そうじゃなくて……」

唄はより一層訝しげな表情で私を見た。どうやら私は、相当見当違いなことを口にしていたらしい。では何だ、と短く問えば、彼女はそのまま黙ってしまった。その体は小刻みに震えている。私はいよいよ本格的に申し訳ない気持ちで一杯になった。その肩を抱きしめてしまいたい衝動を抑え、自分の羽織っていた上着を脱ぎ、彼女の肩にそっと掛けた。彼女の髪が、はらりと肩から流れ落ちる。

その声の振動ですら、空気を伝って彼女を壊してしまうのではないか。そう思うほどに目の前の彼女は儚げに見えた。私は世界で一番大切なそのものの名前を口にした。壊れぬように、そっと。

「唄……」

まるで、何かに縋り付くような、そんな声だった。名前を呼ばれた彼女は目をあちらこちらに泳がせ、結果的にまた俯いてしまった。

「……やっぱり、何でもないです。」

「……そうか。」

彼女の言葉の続きを聞きたくない、心のどこかでそう思っていた私は、それ以上問い詰めることもせずに再び前を向きなした。今夜は一段と冷え込む。早々に散歩を切り上げ、明日に備えた方が賢明だ。そう自分に言い聞かせ、前に一歩、踏み出した。しかしその一歩は、袖を引っ張られるような感覚によって阻止された。違和感を覚えた私が袖に目をやると、白くてほっそりとした手が、遠慮がちに袖を握っていた。私は驚きのあまりに一瞬息をするのを忘れてしまった。

「あ、あの、えっと……私、頑張るので……だから……」

私を、捨てないでください。

そう言った唄は、より一層強く私の袖を握った。

「……捨てる、とは。どのような意味だ?」

「白哉様に、愛想を尽かされてしまうのではないかと、心配で……。」

唄の口からこのような言葉が飛び出してくるなんて想像だにしていなかった私は、暫く開いた口が塞がらなかった。唄はきっと、いずれ夫婦の契りを結ぶであろうこの私が意外にも手を出してこないことに安堵しているその一方で、唄自身のうかない態度が、私のそのような気を起こさせなくしているのではないかと心配なのだろう。

「私、白哉様が私のことをどれほど大切に扱ってくれているのか、痛いほどこの身に感じております。……一生懸命、白哉様のお気持ちにお応えできる様、頑張ります。……だから、その……」

「……本当はお前のことを、今すぐにでも抱いて、我が物にしてしまいたいと。そう思っている。」

「えっ、そ、それは、その、」

気が動転したようにその、その、と繰り返す唄を、そっと制する。彼女の頭に優しく手をやり、その髪に触れた。途端にびくりと跳ね上がる唄の肩。私を見上げるその目に、拒絶の色は見えなかった。ただ、一つ、夜の黒と彼女の白に紛れ込むように、女の顔をした彼女の頬に、桃色が灯った。

「しかし、そのような心配は無用だ。元より私は、お前が私を受け入れてくれるようになるまで待つつもりだ。……精一杯、大切にする。約束だ。」

その言葉に、嘘偽りはない。彼女が私に心を開くまで、ゆっくり進めばいい。目には止まって見えるような遅さだとしても、それは確実に前へと進んでいるのだから。

「……では、帰るとするか。風呂で体を温めると良い。」

「あ、あの!」

彼女は小さく歯切れ良い言葉で、再び私の動きを止めた。彼女の目は、私の目を見ていた。彼女は自分の両手を前に差出し、そのまま最敬礼よりももっと深く、ほぼ直角に腰を曲げ、お辞儀……のようなものをした。

「手!繋ぎませんかっ!」

それはまるで、ダンスのエスコートのようだった。あまりにも必死で、不器用で、精一杯で、愛らしい。私は自然と溢れ出した笑みを抑えることができなかった。

「……ああ、そうだな。」

「あっ、ありがとうございます!」

唄はがばっと顔を上げた。私が右手を差し出せば、唄はその手を両手で握った。それはあまりにも小さくて、細くて、ひんやりしていて、心地良かった。

「行くぞ。」

「はっ、はい!」

「……いつまで両手で握っているつもりだ。」

「あっ、はい!」

「……右手で握ってどうする。これは握手だ。」

「あっ、ご、ごめんなさい……」

慣れないことはするものじゃないですね、と弱々しく呟いた真っ赤な彼女が愛おしくて愛おしくて。私は彼女の左手を取り、再び歩き出した。彼女は相変わらず私の半歩後を歩いているけれど、いつかきっと、私の隣で。

それはまるで、互いの手と手の間に空気を含んでいるように、酷くあやふやで、ぎこちないものだった。しかしそれでも私は、確かな幸せを噛み締めていた。もしかしたら私は、幸せすぎる夢を見ているのではないだろうか。夜の闇は私たちをいとも容易く呑み込んでしまう深海のようで。彼女と二人なら、その中を永遠に彷徨い歩くのも悪くはないのではないか。揺蕩う黒に身を沈めながら、そんなことを考えた。



130122

四年ほど前に『海中夢』ってタイトルの短編書いたなぁということを思い出したので、記憶の断片を繋ぎ合わせてアレンジしてアップ。男性恐怖症の女の子と白哉さまが初めて手を繋ぐ話だったってことしか覚えてないので、心理描写とかその他もろもろは全然違うかも。