きみを愛してみようと思う | ナノ
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朝目を覚ますと、狐子は自分が布団から畳一畳分離れた場所に転がっていることに気付いた。起き上がるまでもなく、体のあちこちが痛いのがわかる。これは他でもない、自分の寝相の悪さが招いた事態である。

そもそも、自分は何故このようなことになっているのか。昨晩の出来事を思い出した狐子は、恐る恐る布団の方向に目を向ける。そこには相変わらず大きな布団が敷かれていたが、白哉の姿はなかった。

「これは、まずったかなぁ。」

四肢を投げ出したまま、無駄に高い天井にぼんやりと目をやる。新婚初日から寝坊をするなど、朽木白哉の妻として失格なのではなかろうか。彼は六番隊の隊長であり、その妻には夫を支えるという重大な役割がある。その役割を、惰眠を貪るという形で放棄したのだ。

「起こしてくれなかったってことは、怒ってるんだろうなぁ……。」

狐子は昨晩のやり取りを思い出し、大きなため息をついた。白哉の言い方も悪かったが、自分も大人気なかったと、今更ながら後悔する。もう少し穏便に話をすることもできたはずだった。何よりも狐子は、彼の亡妻である緋真の話を軽率に出してしまった。白哉にとって緋真の存在は聖域に近く、他者が軽い気持ちで踏み入って良いような話題ではなかったのだ。

勿論狐子はそこまで察しの良い女ではない。しかし、軽率に緋真に関する話題を出すことは彼にとって地雷だということは理解できた。起きてしまったことは仕方がない。次からは気をつけよう。彼女の反省会はほんの数秒で終わった。立ち直りが早いのは、彼女の美点である。
彼女はむくりと体を起こすと、大きく伸びをした。体がぼきぼきと音を立てる。今日やるべきことは沢山あるが、ひとまず顔を洗って着替え、人前に出られる格好になろう。狐子がそう決心して立ち上がったのと、部屋の外から声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。

「狐子様、お目覚めでしょうか?」

「え!?あ、はい!起きてます!大丈夫です!」

昨晩、狐子を部屋まで送り届けた使用人だった。狐子は鏡を確認し、横に大きくはねた髪を急いで頭に撫で付ける。その背後でそろりと襖が開き、使用人が顔を出した。

「おはようございます、狐子様。……昨晩はゆっくりお休みになられましたか?」

「はい、お陰様で。」

悪戯に笑う使用人に対して、狐子は笑顔で答えた。布団を一式しか用意していなかったくせに、なにがゆっくりだ。確信犯だったくせに。その件に関して文句を言いたいのは山々だったが、それよりももっと大切なことがある。狐子はちょいちょいと手招きをして、彼女を寝室の中に招いた。襖をそろりと閉め、小さな声で耳打ちをする。

「あの、ご当主様は……?」

「先程ご出立されましたよ。」

ああ、やはり。狐子はぺちりと自分の額を叩いた。仕事へ向かう夫を送り出すことは妻の立派な仕事の一つだと、そう言い聞かされてきたというのに初日からこのざまである。立て続けに白哉に失礼を働いてしまったという事実に、狐子はしゅんと項垂れた。これはもう、夫婦円満生活を夢見ている場合ではない。

「ご、ごめんなさい……寝坊しちゃって。ご当主様、怒ってますよね……?」

申し訳なさそうな狐子とは裏腹に、使用人はきょとんとした顔を見せた。全く思い当たる節が無い、とでも言いたげな顔である。

「いいえ。狐子様は熟睡しておられるので、起こさぬようにとのことでしたよ。」

「え……ええ!?」

「昨晩……いかがでしたか?いえ、コホン。お疲れのように見えるので。」

「……。」

使用人の頭の中で自分と白哉の掛け算が行われているのを余所目に、狐子は顎に手を当てて考え込んだ。自分がこのような時間になるまで起こされなかったのは、どうやらご当主様のご厚意によるものらしい。……少なくとも、表向きは。
では、真意は何だろうか。彼なりに昨晩のことを悪いと思っていて気を遣ってくれているのか、それともただ単に狐子と顔を合わせるのが嫌だったのか。そこまでは狐子にはわからなかった。ただ何となく、後者の説が有力だと思った。

「……ええと、あなた、名前は?」

「はい、穂波と申します。」

「穂波、さん。ええと、大変申し訳ないんだけど……今日はお布団、別にしていただけないでしょうか?」

「え、ええ……!?」

「私、とても寝相が悪いみたいで……ご当主様にご迷惑お掛けするのも嫌なので、お願いします。」

狐子はそれだけ言うと、ぽかんとした表情のまま固まってしまった穂波を横目に部屋を後にした。見知った顔の者がいない環境の中で、結婚早々仲の悪い夫婦だと思われてしまうのは、狐子の立場的にもあまり良くないことだ。下手をすると、狐子は屋敷の中で孤立してしまうかもしれない。しかし狐子にとっては、一つの布団で白哉と共に夜を明かすことの方が百倍苦痛だった。

狐子がいくら白哉を苦手としていても、気に食わなくても、彼の妻としての役目は果たさなければならない。勿論、狐子にはその覚悟はあった。好きになる努力も、しようと思っていた。しかし当の本人にそのつもりが全くないのだとしたら、話は別である。自分が尽くした相手が自分に全く見向きもしてくれず、亡き妻のことを思い続けていたとしたら。それは狐子にとって、否、恐らく全世界の女性にとっても、耐え難い苦痛と一生付き合っていくことになるだろう。
しかし、どんな状況になろうとも狐子は耐えなければならないのだ。少しでも不祥事を起こせば、天宮家の顔に泥を塗ることになるだろう。――それで済まされれば良い方である。広さの割には人をあまり見かけない屋敷の中をふらつきながら、狐子はため息をついた。この広い屋敷に、自分の存在を善しとしてくれている人は、一体何人存在しているのだろう。そんなことを考えては、心細さに泣きそうになった。





しかしそんな狐子の悩みは、他でもない白哉の一言で払拭されることになる。その日の白哉の帰宅時間は、日付も変わろうとしている頃だった。その日の狐子は一日中気を張っていたお陰で、湯浴みを終えた直後から迫り来る猛烈な睡魔と戦っていた。一人眠り呆けて夫である白哉の出立に立ち会うことができなかった上に、一日中激務に追われていた彼を差し置いて先に寝落ちするなど、それこそ妻失格である。せめて、彼が帰ってくるまでは起きていなければ。そして、謝らなくては。そして、今日一日中考えていたことを彼に伝えなければ。そう何度も言い聞かせながら、狐子は必死に目をこじ開けていたのだ。
それでも狐子の体は、自然と寝室の方へ向かっていた。彼女の体が布団を求めていた。もう限界だ。そう思った矢先に、彼は帰ってきた。

襖の開く音に、弾かれるようにして体を起こす狐子。先程までの眠気は八割方吹き飛び、彼女の目と脳が白哉の姿を認識するや否や、狐子はひっと息を呑んだ。寝室の前に棒立ちになっている白哉は、昨晩以上に難しい顔をしていた。
謝らなくては。狐子は咄嗟にそう思った。しかし突然の彼の登場に驚いたためか、彼女は口を半開きにしたまま固まってしまった。ただ一言、昨晩はごめんなさいと、言うだけだというのに。

束の間の沈黙を破ったのは、白哉だった。

「……昨晩は、済まなかった。」

「…………え。」

あ、この人、謝れるんだ。彼の言葉を受けて狐子が一番初めに思ったことが、それだった。狐子のイメージする朽木白哉は、プライドが高く、頑固で、人を見下すという男だった。そんな彼が、自分に対して謝罪の言葉を述べた。この事態は、狐子が日中ずっと考えていた数十パターンの展開の、どれにも掠っていない。狐子はこっぴどく叱られるか無視されるかのどちらかだと思っていたため、予想外の彼の言葉にリアクションが取れなかった。

「少し、大人気なかった。」

「あ……あの、こちらこそとんだご無礼を……申し訳御座いませんでした。」

やっと搾り出した謝罪の言葉に、精一杯の誠意を込める。彼のことをよく知らないくせに、「謝れない男」のレッテルを貼ってしまっていたことを心の中で詫びた。狐子はそれと同時に、心がふっと軽くなるのを感じた。この謝罪の言葉というのは、相手との今後の関係を良きものにしていきたいという意思の表れに他ならない。

実際のところ、必要以上にプライドが高い白哉にとって、人に謝罪の言葉を述べるというのはとても珍しいことである。しかし彼をまだ良く知らない狐子にとっては、彼の謝罪の言葉の重さなど知る由もなかった。実を言うと白哉は今日一日、自分が狐子にとった態度を悔いていた。
彼が朝起きた時、狐子はというと、何も羽織らずに寝巻きのまま畳に転がっていた。一晩寝て昨晩の怒りも収まっていた白哉は、新しく迎えた妻との関係をこんなにも早々にこじらせてしまったことを情けなく思った。彼が狐子に対して少なくとも今の時点では好きだという感情はなくとも、数ある貴族の女性の中から自分が選んだ女性である。朽木白哉、大貴族の当主と言えど、仮にも心を持った一人の男。自らが選んだ妻と、好き好んで関係を悪くしようなどとは思わない。

彼が朝狐子を起こさなかったことも、彼なりに気遣いだった。謝ることもできぬままあっという間に一日が過ぎ、どうしようかと考えながら帰宅して寝室を覗けば、昨晩まで一組だった布団が、今は二組に増えていた。昨晩夫婦の契りを結ぶことを嫌った狐子が、布団を別々に分けつつも、同じ部屋で寝ることを受け入れた。そして疲れているにも関らず、自分の帰りを待っていた。そしてそれは恐らく、自分と話し合いがしたいと思っていたから。狐子が一日中考えていたことを瞬時に感じ取った白哉は、考えるよりも早く狐子に謝罪の言葉を述べたのだった。

白哉の言葉を受けた狐子は、布団の上に慌てて正座した。昼間は彼と上手く話ができるか不安だったが、彼の態度を見るとそれもどうやら杞憂だったようだ。

「ご当主様と、どうしてもお話したいことがありまして。」

狐子がコホンと咳払いをする。白哉は無言で狐子の前に腰を下ろした。

「まず最初に、昨晩は本当に申し訳ございませんでした。……無神経なことを言ってしまって。」

白哉の返事はない。彼は返事の変わりに小さく頷き、彼女の言葉の続きを待った。狐子は暫くの間言葉を選ぶかのように目を宙に泳がせ、やがてその目はそろりと白哉に向けられた。

「私、恋愛結婚はできなかったけれど、こうなってしまったからには、ご当主様と仲良くやっていきたいと思っています。」

「ほう……それは、私との結婚は望んでいないという様に聞こえるが。」

「正直な話、あんまり乗り気じゃないです。……今だって、ご当主様と恋愛できる自信はないです。」

言葉を選んでいた割には相変わらずの歯に衣着せぬ言い方に、白哉は心の中で苦笑した。

「今は恋愛できなくても、私はあなたの妻としてあなたを支えていきたいと思っています。だから、あなたのことをもっと知っていきたい。たくさんいいところを知って、好きになる努力をしたい。そして出来れば、あなたにも私のことも知ってもらいたいし、好きになってもらいたい。夫婦の契りは、少しでもお互いを知ってからの方が良い。……そう思ってます。」

狐子の真っ直ぐな言葉を、白哉は真剣に聴いていた。狐子が自分に対して好意を抱いていないことは以前から目に見えて明らかだったが、妻として自分を知ろうと、好きになる努力しようと、そう思ってくれている。やはり彼女は、健気で正直で、真っ直ぐな女性だ。未だに少し怯えたような表情の狐子を見た白哉は、口角を僅かに上げた。

「……私の言いたいことは、以上です。何か失礼なことを言っていたら、ごめんなさい。」

「怯えずとも良い。兄の意見には、概ね賛成だ。」
 
白哉の言葉に、狐子はまたもや驚いた。自分はあまり良い印象を抱かれていないと思っていたが、今日の白哉は昨日とは打って変わって自分に好意的なように見えたのだ。狐子は彼の心中を推し量るように、じっと彼を見つめる。こうも接し方が違うと、何か裏があるのでは、と勘繰ってしまうのも当然である。狐子のもの言いたげな視線を受けた白哉は、ふっと笑いをこぼした。

「何か、不満でもあるのか?」

「い、いえ……むしろなさ過ぎて、かえって不気味といいますか……。」

「……私とて、自ら妻に娶ると決めた女性と不仲になることは心外だ。」

決まり悪そうに目線を逸らした白哉は、一呼吸置いた後立ち上がった。忘れていたが、彼は先程屋敷に帰ってきたばかりである。白哉の寝支度をしようとつられて狐子も立ち上がろうとしたが、彼の手がそっと狐子の肩に触れ、それを制した。

「兄はもう休むと良い。」

「ですが……」

「明日も寝坊する気か?」

「えへへ……」

新婚初日から白哉を差し置いて寝坊したことを思い出し、狐子は誤魔化すようにして笑った。白哉だけではない、朽木家の屋敷の者にまで無礼な女性だとは思われたくない。

「では、お言葉に甘えてお休みさせていただきます。」

心なしか安堵の表情を浮かべた彼を、部屋の外に送り出す。ぱたんと襖を閉じると、狐子はそのまま布団に飛び込んだ。

今狐子の心を支配する感情に名前をつけるのは、とても難しい。狐子は布団の上で足をばたつかせ、枕をぎゅっと抱き締める。喜びにも近い感情に、狐子の体は眠気を忘れていた。

理想の恋愛とは大分かけ離れたスタートだったが、まあ、悪くはない。彼をもっと知りたい。そう思えただけでも、大きな進歩である。そして何より、白哉の口から直接「自ら妻に娶ると決めた女性」という言葉を聞くことができた。両親同士の政略結婚だと思っていたが、どうやらそこには白哉自身の気持ちもきちんと含まれていたらしい。

枕を抱き締めたまま、狐子は色々なことを考えた。彼との今後のこと。彼の義理の妹のこと。朽木家で自分がやるべきこと。実家の荷物のこと。今週の休日のこと。自分の初恋のこと。

――彼が自分を妻に選んだこと。

狐子がそのことを考えたはじめた頃には、彼女の体は睡魔に襲われていた。いつか、彼に直接訊こう。眠気に抗えなかった狐子は、投げやりにそんなことを考えた。

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