「ただいま」


矢絣模様の小袖に海老茶色の行燈袴、下げ髪は綺麗にリボンで結わえた如何にも今時のハイカラな女学生といった装いの少女に、玄関にいた使用人たちは頭を下げる。


「おかえりなさいませ名前様、本日の午後からの御予定は?」
「今日は課題があるから病院の方には行かないわ」


使用人にそう告げると少女は真っ直ぐに自室へと向かい、手早く着替えると机へ向かい年季の入った分厚い本を広げた。

苗字家は嘗て幕府お抱え医として名を広めた由緒ある名家であり、今もなお医学界に多くの功労者を排出する医師の家系である。
そして苗字家の現当主忠文の娘、名前もまた医師を志していた。



「誰もいないのね」


時間を忘れて勉強に没頭していたせいか、食事の支度が整ったと呼ばれて部屋を出たときにはすっかり日が暮れていた。

食堂に向かってみれば広いテーブルに一人分の夕食のみ。
幼いころからよくある光景に今更悲しくなるわけでもないが、ぽつりともらせば給仕係が苦笑いを浮かべる。


「誠士郎様は外食されてくるとのことです」
「また飲んでべろべろによっぱらって帰ってくるわ、きっと」


過去の経験を思い返すと碌なことはない。

二日酔いに効く薬を準備しておいた方がよさそうだわ。


「まぁ仕事上の付き合いも御座いますからね」
「甘いわ。あれは付き合いの範疇を超えているわよ。軍人の嗜みとか言ってふらふら遊び歩いているから何時までたっても兄様は独身なのよ」
「ですが誠士郎様も名前様のことを心配されておられましたよ。可愛い妹が嫁ぐのを見届けるまでは自分も結婚しないと豪語されておりましたし」


兄の私が結婚するまでは独身を貫く、と言っているのは前々から知っていた。
いつまでも独身のままの兄に対してなんとなく申し訳ない気持ちもある、しかしそれがどこまで本心なのか、自分が結婚出来ないことに対する都合の良い言い訳ではないのかという疑心も少なからずあったためどうしても信じることが出来ない。

兄の誠士郎は名前と違って結婚願望が全くないというわけではなく寧ろ機会があればしたいらしい。しかしその割に過去の女性遍歴は散々、良いところまでいっても話が纏まらず有耶無耶になることも多々あったり。
地位も名誉も財産もあって身内の贔屓目を抜きにしても見た目は良い方なのに30歳超えて未だ独身なのは、それらを天秤にかけても拒否したくなる何か致命的な欠点があるのではないか。だから結婚したくても出来なくて、あたかも今はまだしない風を装っているのではないか、というのが名前の見解である。



「はぁ…。わたしは結婚なんてする気ないのに」
「誠士郎様だけじゃございません。旦那様、昭義様、そして亡くなられた奥様も名前様の花嫁姿を楽しみされておられますよ」
「…」
「いつかきっと名前様が心惹かれる素敵な殿方が現れます」


黙って少し考え込んだ名前に何を思ったのか給仕係はにこやかに励ましの言葉を掛けてくれたが当の本人はそんなこと是っぽっちも心配していない。


「素敵な殿方、ねぇ…」


ふと思い浮かんだのは幼い頃読んだ西洋の御伽噺に登場する王子様。


「まさかいるわけないわ」


ありえない、自らの想像を一蹴すると自然と自嘲気味な笑みが浮かぶ。

もう夢ばかり見て現実を知らない子供ではないのだから。