勘ちゃんは自由なやつだった。口元と一緒に、おおきな黒目もわらうようなやつだった。勘ちゃんは奔放だった。ひどく、奔放だった。けれど一度も、ひとを悲しませたことがなかった。
「おれ、つまんないものに興味が持てない」
現国の教科書をぼくのほうに追いやり、頬杖をついた。つまらないもの、か。ぼくはしばし逡巡し、しかしなにも言わなかった。この現国の教科書は、たしかにつまらないものだ。この男にとっては、つまらないに決まっている。
「テストは、明日だよ」
勘ちゃんはオレンジのマーカーで、教科書の余白にめちゃくちゃな落書きを始めた。ぐるぐる、するする、きゅる。
「おい、止めろよ」
言葉ばかりの制止に、勘ちゃんは悪戯っ子のようにわらった。
「兵助って、すごいや。やっぱり」
おおきな黒目が、わらう。黒いビー玉みたいな目。着崩れた制服。しかし威圧感はちっとも与えない。勘ちゃんは窓を開け青空を仰いだ。ふいに、妙な胸騒ぎを覚えた。
「いーてんき」
「ああ」
「今夜は星がよく見えるんだろうね、きっと」
勘ちゃんは、世界という檻の中に閉じ込められた天然記念動物のようなものである気がした。息苦しくて、生きにくくて、きっととても窮屈なんだろう。
「勘ちゃん」
「なに?」
「ぼく、塾があってさ」
「そう」
「じゃあ、またね」
勘ちゃんは悲しそうなかおなどしなかった。でも、勘ちゃんはきっと悲しくて仕方がないのだと思った。いつもこの時間は唯一、ぼくらの時間だった。勘ちゃんはまた勉強おしえてね、なんて笑わなかった。ただ右手を、ひらひらと振って、にこにことしていた。放課後の教室で。
ぼくは足早に教室から離れた。廊下を通過し、昇降口までおりた。ぼくはどこにもゆける気がしない。この世界はぼくには広すぎるくらいだ。だから、ぼくは勘ちゃんとどこにもゆかないことにした。勘ちゃんはそれを、ずっと前からわかっていたんだろう。
ぼくが校門までやってきたとき、にわかに辺りが騒がしいのに気づく。耳に飛び込んできた救急車、という単語に、ぼくはため息をついて、すこしわらった。
勘ちゃんは奔放で、ぼくを悲しませなかった。勘ちゃんがいま、窮屈さから解放されているといい、とぼくはひそかに祈り、校門を出た。