マリ、という自分の名前を私はとても気に入っている。単純な二音のつながりで表される響きがこざっぱりとしていてなんだか好きだ。ありそうでいてあまり無い綴りなのもいいし、私の血の何割かを占める東洋の国ではジャスミンの花を表す響きでもあるらしい。なかなか情緒のある名前じゃないか、なんて自画自賛をしてみたくもなる。
だけど私が私の名前を好きだと思うのに反比例して、私の名前は正しく読まれる機会に恵まれない。マリィだのメアリだのメリーだのマリーアだの、私の周りの連中は自分達が呼びやすいように好き勝手に呼んだ。私はマリィでもメアリでもマリアでもはたまたマリアンヌでもなく、ただのマリ、で、それはしごく簡単な名前だと思うのに、正しく呼んでくれる人間には今まで一人しか出会ったことがない。
「マキナミ・マリィ・イラストリアス、か」
だから、目の前の男がそう呟くのにも慣れっこになったため息が出ただけだ。IDカードを覗きこむ横顔に向かって、抗議の意味で腕をよじらせてみる。
「わかったでしょ? いい加減、手ぇ、外してくれない?」
「だめだ」
口からうめき声が漏れた。壁に押しつけた手首に圧力をかけながら、男は素知らぬ顔で私のブレザーのポケットをひっくり返している。
「IDカード、小銭、爪切り。……なんだこれは」
「見てわかんない? 手が荒れてるからって知り合いが送ってくれたんだけど」
私の両手首を片手でまとめあげる男は、どこにでもある一般的なハンドクリームのチューブを鋭い目付きで点検する。ほとんど坊主頭といっていいほどの短い金髪が、薄赤い非常通路の照明を角度を変えて反射する。
男は興味を無くしたようにチューブを地面に落とした。同時に手首が解放されて、私は血の気を失って青くなった指先を振る。
「爪切りは没収だ。後は拾っていい」
「爪切りねえ」
「空港のボディチェックでも同じことをやる。なんなら裸にしてもいいんだぜ」
「爪切りなんかでハイジャック出来たら、もう、そいつのもんでいいと思うけど」
つぶやいた私の額に固いものが当たった。間をおかず、冷たく安全装置を上げる音。
「無駄口をたたくな」
さすがの私でもこうなっては愚痴を続けるわけにはいかない。両手を挙げ、そろそろと視線を上向ける。
まず目に写るのは、お徳用のボンレスハムみたいな太い腕だ。ぴっちりとしたシャツを押し上げるりっぱな胸板に布越しにもわかる頑健な腹筋が逆らう気力をみるみる奪う。猪首の上に乗る顔には緑の瞳が輝き、薄い唇から発せられる英語はよくよく聞けば語尾のあがるロシア訛りだ。
そして極めつけ、両脇にぶら下げたホルスターのひとつには黒光りするマカロフが覗いている。私の額にあたっているのも同じものだろう。
「さて、不要な言葉がなくなったところで本題に入ろうか。俺たちのファーストコンタクトはお世辞にもいいとは言えない。しかしまあ、人生には予定にない出会いがあるものだろ?」
近道と思って非常通路を使っていたのがあだになるとは。ベタニアベースに不法侵入し、数分前に私とはちあわせたロシアンスパイが八重歯を見せた。獰猛な笑みだった。
「協力という言葉があるだろうマリィ。それが俺たちにとっていい響きになることを願うよ」
私はほんの少し残っていた抵抗の意志を諦める。肩を落とし、けれどこればかりはきっちり訂正した。
「私、マリなんだけど」




そもそも、ベタニアベースはその立地条件からして不穏な場所だった。ロシア連邦の最北端に位置する場所をユーロネルフが借り上げて使っている。広大な敷地には数分ごとに代金が支払われ、ユーロばかりか国連にとって大きな負担となっている。
そんなところに予算を使うくらいなら連邦自体に支部をまかせればいい、と言うのはあの東西の冷戦を知らない人だろう。そして、共産主義から脱したばかりのロシアにとって2000年のセカンドインパクトは相当な痛手だった。だから、利害の一致、という美しい言葉によって、ベタニアベースの存在は成り立っている。
しかし、目の前においしそうなごちそうがぶら下がっているのに「我慢しろ」というのは、きっと連邦に限らず無理な話だった。エヴァは今のところ使徒に対する防衛手段だけれど、外野から見れば極秘裏に開発されている国連の最新兵器だ。ロシアにとってはそれが目の前、どころか自分の家の敷地内にあるわけだ。下心を出さない方がおかしい。
つまりネルフの警備がザルなのが悪い。シンプルな結論を胸に収めて私は前方に人差し指を向ける。
「次の曲がり角、右かな」
そこを抜ければ深部へと続くエレベーターがあるはずだった。非常通路の照明ではわかりにくいけれど、よく見れば暗視スコープ用の誘導灯が灯っている。通路にペイントされた階数表記と地図とを見比べていた男が、感心したように頷いた。
「マリア、君が存外に友好的で助かるよ。おかげでよく進む」
「まあ、この若さで死にたくはないしねぇ」
私はマリアでもマリエでもマリオンでもないんだけど。これも心の中に控えておいて、つぶやく。
「一度行ってみたいとは思ってたし」
男の目的地はこの基地最大のタブー、「第三使徒」が封印されている場所だ。ネルフ・ベタニアベースは極寒の地中に蟻の巣のように張り巡らされている。そして私たちが向かっているのは女王蟻の隠し部屋というべき場所だった。私たちパイロット候補生にすら黙秘されていて、「レベルEEE」という通称しか聞いたことがない。
エレベーターにたどり着けばあとの操作は男がやってくれた。白人らしく筋肉に膨れ上がった背中を丸め、人差し指で慎重にパスワードを入力している。こう見ると、なかなかにキュートだ。
暇をもてあまして眺めている私に、振り返った青い目がにやりとした。
「ロマンス映画みたいに惚れちまったかい? お嬢ちゃん」
「そうかもね」
私は軽口に肩をすくめて応える。ブレザー一枚の肩は、すくめた形のまま縮こまってもどらなくなった。そろそろ暖房の有効圏内を逃れようとしている。
難なく動きだした箱の中で、私より薄着の男は平然と銃の弾数を確かめていた。無言のままの私を怯えていると勘違いしたのか、ちらりと気の毒げな視線を送られる。
「なあ、俺も人間だ。道案内させておいて殺すなんて真似はしないよ」
「それを聞いて安心した。正直怖かったんだよね」
自分でも白々しい私の言葉に、男は頬を皮肉気に歪める。
「まあ、なにもかも終わったら早くここから逃げ出した方がいいだろうな」
「なにするつもり?」
「聞いてどうする?」
男はオートマチック拳銃の弾倉をスライドさせて元の位置に戻した。機械的な音が銃の存在を主張する。私は口を閉ざし、刻々と温度を下げる空気に肩を抱いた。落下するエレベーターの階数表示はB54階を過ぎ、ついにEEEと表示を変える。
いつのまにか、ポケットに入れた右手が中にあったハンドクリームの形を確かめていた。伏せたまぶたの裏に、幼い看護婦姿の少女が刷られたパッケージが浮かぶ。
『手が荒れてるぞ』
こんなときだからかな。思い出してしまう。
久々に面会に着たあの人にそう言われ、次の日に届いたこれ。
もう一年以上前のことだ。




分厚いシャッターの間に張り巡らされた螺旋状のボルトが回転する。空気よりも軽い気化LCLが舞う中で、その部屋はゆっくりと姿を現した。暴力的な光量に顔を覆う私の横を男が通り過ぎる。エレベーターの中ににとどまるわけにもいかず、目を押さえながら後に続いた。
耳に入ってくるのは、たぷんと水のたゆたう気配に、細かくはじける泡の音。目をつむっているから、それこそ深海魚にでもなった気分だ。一つだけ海と違うところがあるとすれば、周囲の空気に嗅ぎなれた鉄の匂いが混じっていること。
焼かれた網膜が像を結び出す。部屋は広く、天井にもかなりのゆとりがある。さっきから足音がしないのは、床に仕立てのよい絨毯が敷き詰められているからだった。
上品な印象のある絨毯の上には、それでいて棚や机といった家具は何もなく、代わりに壁の一面がガラス張りになっている。分厚い、おそらく強化されたアクリルガラスの向こうにはLCLが満たされ、そしてその中に、使徒がいた。
博物館に展示されている骨格標本のように、それは私の目に映った。かつて地上に存在していたという首長竜の骨格によく似ている。ただ恐竜のような四肢はなく、頭蓋骨から伸びる蛇のような脊椎の中央に樽型の黒い胴体があるだけだ。胴体には手榴弾によく似た格子状の隆起があり、底にあたる部分には短い足がたくさん生えている。LCL中の光の屈折のためか、細かいそれらは時折蠢いているように見えた。
生き物のような、無機物のような、いやもしかしたら人工物なのかもと思わせる不思議な形だった。これがいまも第三新東京に降っているという未知数の敵なのか。
敵、そう敵だ。倒すべき敵ーー
使徒を目の当たりにしたとき自分が何を感じるか、それまでに想像したことは何度もあった。感動に泣いてしまうかもしれない。あまりの恐怖に腰を抜かして絶叫するかもしれない。でなければ、激しい怒りと共に拳を振り上げるだろうか?
そして、今までがそうだったように、現実は予想を裏切った。奇怪な生き物を前にして、私の背をなであげるのはぞっとするほどの快感だった。寒さとは別の感覚に肌がぞろりと粟立つ。
やっと見つけた。これが敵。これが私の本物の敵なんだ!
どうやって戦おう。どうやったら勝てる? シミュレーションなんかじゃ到底及ばない本物の敵だ。どんな攻撃をしてくるか想像もつかない。
あのとぼけた骸骨に伍号機のスピアをぶちこみたい。背骨を両手で引きちぎってやりたい。そうしたらこれは鳴き声をあげるんだろうか。チキンになる直前の雌鶏のような金切り声か、あるいは肉食獣みたいに吠え狂った断末魔か。
うっとりとした私の空想は、けれど背中にあたる冷たい感触に遮られた。
「うそつき。……逃がしてくれるっていったくせに」
振り向くまでもなかった。水槽のガラスに、私とその背後の男の姿が映っていた。男の腕はまっすぐ伸ばされ、ホルスターの片方から拳銃がひとつ消えている。
おまけに、ああまったく、撃鉄の音ほどこの状況で聞きたくないものもない。
男の顔は笑っていた。私の背中に銃口を突きつけたその姿が後ずさる。
「逃がすさ。逃がすとも。君には感謝しているからな、ただ」
ひょいと銃口が動く。促されて見た水槽の壁には、黒い箱型の物体が張りつけられてい。液晶の小さな窓には赤い電子時計がカチカチと時間を刻んでいる。
「時間がくればこいつが水槽を破壊する手はずだ。悪いけど、逃げるのはそれまで待っていてくれよメイリン」
「マリだっての。てか、死ぬじゃんそれって」
残酷な笑い声。
「ま、運が良ければ生き残るさ」
あらかじめ呼んでいたのだろう、軽いベルの音を立ててエレベーターが到着する。入ってきた時と同じように扉を繋ぐボルトが回転しはじめる。すべてのボルトが唸りをあげながら収納され、扉の隙が光を漏らす。
ゆっくりと開くエレベーターの中身を私はガラス越しに凝視した。薄く笑ったまま、男は一歩、二歩と遠ざかっていく。またひとつ後退する。
私は右足をさりげなく引き、かかとに力をかけた。いつでも走りだせるよう軽く身構える。
しかし……、本当に遅い。遅すぎる。
「じゃあな」
そして辺りに銃声が響いた。



とっさに横にとんだのは、らしくない取り越し苦労だった。銃声は一発ですみ、男の持っていたマカロフが水槽を打ち抜くこともなかった。
知らず、安堵の息が漏れた。崩れた体を持ち上げる私に向かって見慣れた無精ひげが片手を挙げる。
「よう」
「遅いよ、ミスター加持」
毛ほども悪びれない顔で、彼は下ってきたエレベーターの中から踏み出した。
「EEEへの立ち入り許可に時間がかかった。まったくじいさんの相手は辛いよ」
この人には珍しく、いつもの着古した青シャツではなくネルフの詰襟姿だ。いったいどんな話をしてきたのか、まだ煙の上がるデリンジャーを懐に詰めながら十字を切る。
「『われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ』。……アーメン」
「わざとらしいなぁ、無宗教国民のくせに」
「おいおい、日本人にだって神様を信じる心はあるんだぜ?」
「自分の都合のいい時だけにでしょ」
私と、きれいに左胸を打ち抜かれたロシアンスパイの死体の脇を通りすぎ、彼は水槽に設置されたプラスチック爆弾へとしゃがみこむ。礼服をまくりあげ、手首に落ちた目が満足そうに細くなった。
「予定通りだ」
「何、これって本部の作戦だったの!?」
呆れて叫んだ私に、立ち上がった人影が首を振る。
「いいや、連邦の動きは本物だった。俺個人がリークした情報を利用しただけさ。それにしても、お前との接触は予想外だったが」
水槽を背景に間近まで近づいてきた彼の手が、私のブレザーのポケットに伸びた。中から、ひしゃげたハンドクリームのチューブを取り出す。
「知ってたのか? 盗聴器と発信器」
「……」
知らないと、言えば嘘になる。チューブの中に微かなしこりがあるのは知っていた。あの工作員も注意して触れば気づいただろう。第一にこの人がまともな気づかいをするわけがない。
発信器と思っていた私の見立てが甘かった。
「驚いたよ、お前には何でもお見通しなんだな」
「まーね」
苦虫をかみつぶしたような表情をどう思ったのか、男は首をかしげる。しかし腕時計を見ると私の手にクリームを渡し、エレベーターへと向き直った。
「さて、急ぐぞ。あと数分でここから脱出する」
「ここって、この階から? それともこの施設から?」
「そのどっちもさ。第3使徒の暴走に乗じて俺たちは逃げるんだ」
待機したままのエレベーターが動き出し、あわてて飛び乗った。耳鳴りがする狭い部屋の中で、私は背の高い彼の顔を見上げる。
「ねえ。日本に着いたら彼女紹介してくれるって話、忘れてないよね?」
「ああ、ん。だがなんで人の彼女なんて見たいんだ?」
「べぇっつにいいじゃん、なんだってさぁ」
床が一際大きく揺れ、沈黙する。怪訝な顔のまま、ミスター加持は連なるボタンの中の「開」を押した。
「まあいいか。ほら行くぞ、マリ。五号機がお待ちかねだ」
「!」
エヴァが収納されている階に降り立って、私は走り出す。あの使徒が来る! エヴァに乗れる! 
わくわくと弾む胸の中、小さな棘がやわらかいところを刺すのには気にしないふりをする。そう、私はただのマリィやマリアやメイリンじゃなく、五号機パイロットの真希波・マリ・イラストリアスなんだ。
だからあのチューブを持ってた本当のわけなんて、あなたは一生知らなくていいよ。




2012 2 14


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