(金魚)



金魚が白い腹を浮かせて死んでいた。夏祭りの次の日のことだ。

僕が目を覚ました時にはもう彼はテーブルの前に立って透明なガラスボウルの中に浮く死骸を見つめていた。めったに見せないうなじが雪のように白く、昨日彼に紺色の浴衣を着せる間ため息が出そうだったことを思い出す。
僕はテーブルに手をついて彼と金魚とを同時に眺めた。血の色をした目に細長い睫毛が覆いかぶさり、そのせいで金魚の浮く水面が波紋を立てる。
「ねえシンジ君」
「何?」
「生き物は死んでしまったらどうにもならないね」
白魚のように美しい手がうす濁った水の中に差しいれられ、僕はあっと声を上げそうになった。水辺の生き物特有の生臭い匂いが辺りに広がり、誰もが眉を寄せるようなそれにもためらいの人かけらも見せずカヲル君は死んでしまった魚を掬いあげた。
姿かたちが美しい人は心までも美しいのだ。僕は彼の清らかな心に感嘆し、また魚の死骸を忌避した自分を恥じた。
「埋めようか」
「そうだね」
金魚をビニール袋に入れ、砂のついたサンダルに足を収めて歩き出した。湿った空気を生ぬるい風が玄関のドアから入りこんで彼の目を細めさせる。
彼の背を追って歩く間じゅう、この夏過ごしたことを指折り思い出してた。海に行った。貝殻を拾った。花火を見た。わたあめを買った。川原の土手は草木が冷たくて草履の裏が青く染まった。それが明日でなく、昨日のことであることがどうしてか悲しい。
顎に伝う汗をぬぐって空を仰いだ。日差しは高く、もうすぐ南中にある。俯いた彼の作る影が焦げ付くようにアスファルトに染みていた。

金魚の死と一緒にもうすぐ夏が終わる。




(扉に穴をあけたがる)



シンジは携帯の電源を切った。いつまでたっても鳴りやまないから。ブーブー震える機体には連続して同じ名前の着信履歴。もう見るのもいやで、画面が点かないように暗くした。
きっかけは些細なことだったけれど、いつも些細なことが重要だった。シンジがカヲルを拒絶して家に立て篭もってから数時間、カヲルは最初はメール、次に電話を次々に送ってきた。それでもさすがに諦めるだろう。いくらリダイアルボタンを押したって無機質なアナウンスが響くだけだ。携帯を片手に無言でたたずむ姿を想像して、シンジはぐ、と息を呑んだ。
やり過ぎだろうか。
いや。両手を握りしめる。ここで引いたら負けだ。僕は間違ってないぞ。シンジは思い出して、再び怒りが思考を支配するのを感じた。あまりに頭に血が上りすぎて目が潤んでくる。手の甲で乱暴に拭い去った。負けるもんか。
カチャ、と微かな音が響いたのはそのときだった。その細かな金属が擦れ合うような音の出所が間違いなく玄関であると気付いた瞬間、シンジは今まで溜まっていた血がさっと頭から引くのを感じた。と、
ピンポーン。チャイムが鳴る。
「シンジ君?」
間違いなかった。シンジは息を殺した。例え無駄だと知っていても、そうせずにはいられなかった。
「シンジ君? 居るんだろう?」
ピンポーン。カチャカチャ。ドアノブを回す音。なんだろう。怖い。
「…………」
無言になる。いっそう怖かった。開けたほうがいいんじゃないかと頭の中で警鐘が鳴る。でも。思いかえす。喧嘩。そう喧嘩してるんだ。だから。
沈黙が続く。シンジは足音をたてないよう恐る恐る歩を進めて、玄関の前までたどりついた。静かだ。けど、居る。絶対に。このドアの向こうに。
開けてやらないぞ。とシンジが思ったその時だった。
めりめりめり! と耳をふさぎたくような怪音に、シンジは直立不動の姿勢で玄関のドアを凝視した。おそらく世間並みには頑丈であろうそのドアは、ノブの少し上から大きく凹み、こちら側に向かって突き出ていた。その表面が人間の拳の形を摸したかと思うと、ゴムを限界まで伸ばして引きちぎるようなばちん! と言う音がして、ドアの表面はやぶけ、本物の白い拳がぽっかり開いた穴から覗いていた。そしてシンジの見ている前で、その手は指を伸ばしてドアノブの下にある鍵を探りあて、ゆっくりとタブを回した。
ちょっと待ってよ。シンジは呆然としながら思う。これじゃ、まるで、ホラー映画じゃないか。こういうときはどうしたらいいのか。犠牲者のパターン的には、悲鳴を上げて窓から飛び降りたほうがいいんだろうか。
けれど結局、シンジは動けなかった。目の前でドアノブが回り、キイと扉が揺れた。呼吸が早くなる。あまりに早鐘を打つ心臓に、思考がやけを起こしかけていた。
来るなら来い。

ドアは、薄く開いただけだった。
「シンジ君」
心配そうな瞳が覗く。
「ごめんね」
それだけ言って、再び口を閉ざした。シンジはもつれそうになる舌を懸命に動かす。
「……なにに対して?」
赤い目が、すまなそうに細まった。
「さっきのことや、今ドアを壊してしまったことや、色々」
「えっ、と……ドアを壊したの、悪いと思ってるの?」
「うん」
叱られた子供のように、目を伏せている。実際叱っているような気分になって、シンジは口をつぐんだ。赤い目がちらりと上を向く。
「ごめん。でも、会いたかったんだ。君と。会って、話し合いたかったんだ」
見上げるようなそれは、シンジに新鮮な感覚を与えた。叱られた子供のようなカヲルの態度が、なんだかおかしかった。心の内をくすぐられるような感覚に、シンジは笑っちゃだめだ、と思って。
すぐに吹き出した。
「シ、シンジ君?」
「……君ってさあ!」
めちゃくちゃだ。会いたいからって、話し合いたいからって、無理矢理ドアを破壊するような人物が他にいるだろうか。そのうえ、そのことに触れられるとしゅんとした顔をして。
「っもう。駄目だよ、カヲル君、負けたよ。ドアを壊すくらいなんだから、お茶くらい飲んでいってよ」
「それじゃあ、シンジ君」
「うん、僕もごめんね」
ぱあっと明るくなるカヲルの表情に笑い返して、シンジは玄関に彼を招きいれた。ドアに開いた穴から廊下の景色がそのまま見える。けれど、まあ、こんなのもたまにはいいかもしれない。



(ウテナパロ? ※女装と女体化注意)


 
 
聖(と書いてセントと読む)禰屡苻女学園に転校生がやってきた。髪はすきとおる銀にして目は血のような真紅。白魚のような指先に立ち振る舞いは優雅の一言。
まあ文句のつけようのない美少女であるということで、その名前を渚カヲルと言った。

渚カヲルは深緑のパフスリーブのワンピースに白リボンの制服を見事に着こなし、転校初日から禰屡苻ジェンヌ(と、校外から呼ばれる学園の淑女たち)にそれはもう深い深いため息をつかせた。
しかし渚カヲルが目立ったのは何もその容姿だけでなく、転校初日に言い放ったその一言も十分にセンセーショナルなもので。

「渚カヲルです。身長167センチ、体重は45キロ。スリーサイズは上から85、58、88。趣味は気に入った女の子とお風呂に入ること。そして僕は――碇シンジ君の許婚だ!」

碇シンジ――!教室は小鳥が一斉に羽ばたいたような喧騒に飲み込まれた。その中心にいるのは碇シンジ(♀)。長い黒髪を大正の女学生よろしく大きなリボンで後ろにまとめた姿が目立たなくも可憐だと評判の生徒だ。
そんな彼女は、ブロンズ像のようにその体を静止させている。濡れた瞳はただ一点、黒板の前の銀髪の少女に向けられていた。
「気に入らないわ!」
突然、がたんと椅子を蹴り上げ、赤毛の少女が立ち上がった。これもまた有名な人物だ。
惣流・アスカ・ラングレー。ドイツからの帰国子女にしてその風貌とスタイルが禰屡苻の看板とも言うべき彼女は、渚カヲルに向かってどこから取り出したのか白い手袋を叩きつけた。ああっとざわめく声。言わずもがな手袋を投げるのは決闘の始まり。
それに倣うかのように鈴のような美しい声が響いた。
「私も」
その声の持ち主はまるで氷の彫像と噂される妖精じみた外見の少女で、名前は綾波レイと言う。この世のものとは思えない透き通った美貌からお姉さまと慕う者は後を絶たない。
ぴしいと凍てつく教室の中三人はお互いを睨みつけ、たおやかな体から威圧を放った。やがて静まり帰った教室にかしゃかしゃっと軽い音が響いたのは、相田ケンコのすっぱ抜きによるものだった。

「決
 闘  三つ巴
 !    の
      戦い」


「なんなんだよ……僕は何もしてないのに……」
「ぐずぐす言わない!」
やる気満々の三人と不平を垂れる一人は屋上にいた。天井からお城が逆さまにぶら下がる決闘場でもあればよかったのだが、あいにくと禰屡苻は生徒会もないしだいいち女子校だった。
しかしフェンシング部はある。
「さあ早く体から剣を出すのよ」
「そんな、やったことも見たこともないのにできっこないよ!」
「そう、逃げるのね」
「あ、あやなみぃ」
涙目のシンジをいじり倒す二人はそんなフェンシング部のエースだった。互いに拮抗する実力は両雄並び立たずという格言を実績で覆し、大会では名前を聞いただけで逃げ出す対戦者も多いとか。ちなみに両者のファンもその入部から現在まで苛烈な戦いを繰り広げてきた。
惣流が上か、綾波が上か――
その永遠のテーマが今まさに決しようとしている。
「ていうか僕の立場は?」
和気藹々とする三人に置いて行かれた形でカヲルがぼそっと呟いた。その声にシンジのこめかみをぐりぐりしていた赤毛頭が振り返る。
「あ、あんた、そうよ転校早々なんなわけ?シンジも!知り合いなの?」
「む、昔の。中学でたしか同じクラスだったかな……でも」
シンジが言い終わらないうちにアスカが鼻を鳴らす。
「へえ、じゃああんたシンジを追い掛けてきたの」
「フッ、そういうことになるかな」
「ストーカー……」
「女同士で許婚なんて頭おかしいんじゃないの」
「あ、それは心配には及ばないよ。僕実は男だから」
ほら、と釦を外してぺろんと胸をはだける。それを見たシンジが絶叫した。
「うわーやっぱり!おかしいと思ったんだ中学の時は学ラン着てたし」
「いけなかったかい?」
「同性に求婚されるよかいいけど、いやそれよりそういう衝撃の事実はオチまでとっとこうよ!」
「あら変態っぽい物言いをすると思ってたら本当に変態だったわけね」
「オカマ……」
無表情の綾波レイの一言がきつい。しかしカヲルは平気な顔で髪をかき上げた。
「まあなんとでも言うがいいさ。これで僕とシンジ君が許婚なのはわかって貰えたと思うし」
「あ、そ、その許婚っていうの!僕聞いてないよ!?」
「当たり前さ先月決まったばかりだからね。僕はとある外資系商社の取締役の息子なんだ。君のお父上の会社に提携する代わりにって切り出したら案外すんなりと了承してくれたよ」
「父さん!」
父親の非情に愕然とするシンジの隣でアスカが不敵に笑う。
「本人の了解も得ず、ね。なら一層あんたに渡すわけにはいかないわ。ファースト、あたしたちの決着はまずこいつを倒してからよ」
「……目標を使徒と確認。零号機が先攻、弐号機はバックアップ」
「嫌よ!バックアップはあんたでしょ!」
「あなたが死んでもかわりはいるもの」
「な、なんですってえ!」
「あーもうなんでもいいから」
行くよ、と胸に薔薇をつけて、カヲルはぶんと模擬刀を振った。アスカとレイは背中あわせに腕を伸ばし、細い剣の切っ先をその花に突き付けた。


数分後、シンジは呆然とその場に立ち尽くしていた。
「そんな……」
地に倒れ伏しているのは赤と水色の髪の二人。けがれのない禰屡苻の制服が無残にもコンクリートの上で砂にまみれている。
「二人がかりとは……さすがの僕もてこずってしまったよ」
だからって女の子相手に面はないだろう。
シンジはそう言いたかったがアスカが執拗に目を、綾波は股間を狙っていたのを思い出して止めた。プラスチックの刀でダメージはそんなになさそうだし。
「……思い出した、渚君、剣道の全国大会に出てたっけ」
「カヲルと呼んで欲しいな。ようやく思い出したんだね、シンジ君」
「うん」
シンジは、アスカの握っていた細剣を持ってゆらりと立ち上がった。
眉を上げるカヲルに向かって静かに語りかける。
「カヲル君、僕を君の許婚にするって行ったとき、父さんは何て言ってた?」
「うん?たしか、『出来るなら好きにしたまえ』と」
「……やっばりね、父さんらしいや」
呆れたように呟くシンジは先刻と違って余裕がある。カヲルがそれに気付いた途端、ずしーんと大きな地響きがした。
屋上の床がぐらぐら傾き出す。バランスを崩したカヲルの前でシンジが体の前で剣を構える。
「地震……?」
「違うよ。ところで、カヲル君は僕の母さんについては何か知ってる?」
「10年前に他界されたと」
「ううん。まだ、生きてるんだ。少し形は変わっちゃったけど……」
地鳴りは止まずさらに大きくなった。いまやゴゴゴゴゴと恐ろしいまでの轟音になっている。そしてズズズと何かが迫り上かってくる気配。

それが全貌を表したとき、カヲルは今さらこの学園が碇ゲンドウのものだったことを思い出した。娘をやると言ったときの含みのある笑い。そうか、これでか。
「ちょっと厳しい母さんなんだ。碇の婿になる気なら……覚悟してね」
シンジの胸のリボンが沸き上がる風に舞い上がる。長い黒髪がたなびく先で、一本角を生やした紫色の巨人がゆっくりと立ち上がった。



(マリカー)



またアスカに怒鳴られた。洗濯物にしわができてた、お気に入りのオーガンジーのワンピースなのにどうしてくれるのよって。結局たたんでおいた服をくしゃくしゃにして投げつけられたけれど、僕は手洗いなんてできない。ミサトさんの家に帰って夕食を造って、掃除をして洗濯をして明日のお弁当の用意をして、たまに宿題をするのもおろそかになるっていうのに、どうしてそこまでしなけりゃならないんだよ。


「碇ー、マリオカートやったことある?」
「ないよ」
突然チャイムを鳴らした僕に何も言わず、ケンスケは冷えたパイナップルの切り身を出してきた。ガラスの器をカーペットの上に置いて、積み重なったゲームの山を荒らしながら背中ごしに声を飛ばす。
「お前ってほんとゲーム知らないよな」
「むしろケンスケがなんでそんなに知ってるのかが不思議」
「うちんち親が家にいないじゃん? だから」
促されて手に持つ2Pのコントローラーはボタンの位置が分からなくて、時々下を向きながら操作する。旧型らしくホコリを被ったゲーム機がぶうんと唸りをあげて起動する。
「いいよね、干渉されないの」
「碇も昔はそうだろ」
「今は、めんどくさい」
ヨッシーにしたケンスケにならってキャラクターを選んでいると、お前はこれだろ、って何故かピーチ姫を選択される。バカ、やめてよ、って言っている間にスタート地点には緑とピンクの車が並ぶ。
「また、惣流か」
「アスカもそうだけど、ミサトさんも」
「なんで?」
「僕がずっと家のことやってるのに、何にも言ってくれないし」
「ふううん」
ケンスケが曖昧にうなずいた瞬間、たからかな警笛と共にレースがスタートした。とっさにAボタンを押すと何の手ごたえもなくカートが発進する。
家事をすることについてはもう諦めていた。ミサトさんはもとよりアスカだって何もしない。隣で掃除機をかけていても横目で見るだけで、平気でテレビのボリュームを上げて知らんぷりをする。
僕には労働と引き換えに住む場所が与えられているような節があった。少しでも休んでいるとうっとうしげな目で催促されるし、ミサトさんだって何を頼むにしてもアスカでなく僕を標的にする。こんなことなら一緒に住むなんて言わなければよかった。一人で生活するのならワンピースにしわを造ることもなかったし宿題を片付けるのに寝不足になることもなかった。本当なら今にでも荷物をまとめてネルフの宿舎に移ればいいのだけれど、何か誤解したミサトさんに失望されるんじゃないだろうかとか、またアスカにどうこう言われるんじゃないだろうかとか、勝手な憶測が僕の足を掴んで離さない。
「くらえっ、M24型柄付手榴弾!」
派手な音がして、目の前で爆発が起こった。さっきまで先頭にいたはずの僕の車が転倒し、げらげら笑うケンスケのヨッシーが追い越していく。
「……よくもやったな!」
「あおまっ後ろからクラッシュさせんな、この」
「こうなりゃコースアウトだーっ!」
「碇逆走してるから! 逆走!」
めちゃくちゃにコントローラーをあやつりながら、僕たちはいつの間にか笑っている。レースというより車同士のボクシングになったゲーム画面に腹を抱えてころがりながら、僕は浮かんできた涙をぬぐってもう一度ピンクの車を発進させた。


僕は臆病だ。家出をする勇気もないくらい。
だからその代わりに、たまにケンスケの家に行く。



2012 10 8

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