(きっとひともころせる)


「変わってきてるんだ」
シンジが足元に咲く、まだつぼみのツユクサをもてあそびながら言う。
「なにが?」ケンスケは湯気にくもった眼鏡を上げた。
「気候? 生態系? 地軸が戻ってきてる?」
「ううん、僕が」
ふうんと生返事をして、ケンスケは飯盒炊爨メニューのひとつ、海軍カレーを紙皿によそった。シンジが丸い頭を屈めていただきますと言う。
「変わるって、何が? お前あんまり変わったようには見えないけど」
「内面の問題かもね。実は僕、エヴァに乗るのが楽しくなってきてる」
ケンスケはスプーンで紙皿を掬う手を止めた。シンジはいつものシンジで、細い首をシャツの襟からのぞかせてふうふうと熱いカレーに息を吹き掛けている。
その唇がすぼめた形から、にっと釣り上がった。
「シンクロテスト、僕たちの中でだれがトップだと思う?」
「そりゃ、惣流だろ。ドイツから来たエリートなんだから」
「そう。で、二番は僕。でも、実戦時はたまに、一番になる」
「へえ、すごいな」
「たまに、だけどね?」
言いながら、シンジの食べっぷりは見事だった。ケンスケの舌ではレトルトのぱさつきが後をひいて、あまり食べる気にはならない。けれどシンジは軽快にスプーンを上下させて楽しそうに食事をする。
「……お前、この頃食べる量ふえたんじゃないか? 前はよく残してたのに」
「そうかも。エヴァの操縦で疲れちゃうからかな」
シンジは最後の一杯をぺろりと平らげ、ケンスケに向かって朗らかに破顔する。
「ね、だから変わってきてるって言ったでしょ?」
髪の短い少年の、いつもの笑みだった。
ススキの広がる野原。日なたの残り香でまだ暑く、けれど夕闇はすぐ傍までせまっている。





(彼がジブリに染まったら)


新学期、ケンスケは学生寮のドアを開けて言葉を無くした。
「ああおかえりケンスケ君」
振り向くのはルームメイトである絶世の美青年渚カヲル。それはいい。それはいいのだ。でもこれは、二人が力を合わせて買った薄型液晶24インチの横に鎮座ましますこれは。
このうずたかく積もるDVDタワーはなんだ。
しかもぜんぶアニメ。というよりジブリオンリー。
「今ちょうどラピュタの25回目を見始めたところなんだ。ケンスケ君も見るかい?」
「ちょちょちょ、ちょっと待った。えーとなんで? ていうかなんで?」
「やはりラピュタは名作、いや銘作だねケンスケ君。神に愛された作品と言ってもいい。かれこれ三週間は続けてみているけれどまったく飽きる気配がない、むしろ毎回新しい発見がある」
「あのさ、ここにあった9ミリパラベラムシリーズとカラシニコフ3丁なくなってるのなんで? あとUSPコレクションも壁に飾ってあったの消えてるよな。なんか家具少なくなってるのも俺の気のせいじゃないよな?」
「ほら始まったよケンスケ君。冒頭だからって馬鹿にしちゃいけない、ここの格闘シーンがまた不世出なんだ。」
「これはちゃんと納得出来る説明をしてくれるんだよな渚? まさかそこのカリオストロからポニョまでのジブリがいっぱいコレクションに化けたってわけじゃないだろ?」
「ああ、ごらんよあのふんわりと風になびくシータのおさげ……! 君はあの質量が宙に浮かぶのにどのくらい強い風が必要か知って」
「な・ぎ・さ!」
肩を掴んで引っ張る。カヲルは悲しげに睫毛を伏せ、ケンスケのほうに向きなおった。もちろん停止ボタンを押すのも忘れない。
「ケンスケ君、きみのおかげでムスカの最初の台詞が聞き取れなかったよ」
「渚、いい加減にしないと俺はこのまま濃厚なチューをするぞ」
「優しくしてほしいな、ダーリン」
「……それはお前の心がけ次第だぜ、ハニー」
ケンスケはカヲルの肩から手を引いた。
「で、俺のルガーP08とH&KP2000はどこにいったんだ」
「別に売ったわけじゃないよ。質に入れただけで」
「渚ぁあああああ!」
ケンスケは再びルームメイトの肩を締めあげた。がくがくと揺さぶられながら、カヲルはアハハハと爽やかな笑い声をあげる。
「すまない。手持ちがなかったんだ」
「ふざけんなふざけんなふざけんな」
「大丈夫。納期は明日だから、僕と君のバイト代を合わせればなんとか」
「結局俺が損してんじゃないかよー!」
最後に目いっぱい肩をシェイクして、ケンスケはがくりとうなだれた。解放されたカヲルの手はすぐさまリモコンの再生ボタンを押す。かちゃーんと割れるワインの瓶。飛行船の外に飛び出すシータ。
「ったくなんでアニメDVDにそんな……」
「アニメじゃない」
画面を見る赤い目がすうと細まった。ケンスケはぎくりと固まる。
「アニメじゃない、アニメじゃない」
「ホントのことさ?」
「いや。ジブリはアニメじゃなく、芸術」
「どうだっていいんだよそんなのー!!」
「ああまた声が聞こえない」
眉を寄せたカヲルの顔が、かんかんと階段を昇る音にぱっと輝く。
「この音は!」
「おはよー」
「ああやっぱりシンジ君! いらっしゃい」
「いつもだけどなんでわかるんだ変態め」
「まだ実家にかえっていたんじゃないのかい?」
「父さんが母さんとの生活を邪魔するな早く帰れって。あれ、なんか部屋さっぱりしたね」
「そーだ聞いてくれよシンジ、こいつがさ……」


そのあと三人は貴重な休日を使って、ナウシカの着たペジテの桃色の服が青くなる瞬間を探したりした。




(相続)


「血が、ね」
「ああ」
「血が足りないと言われてね」
「うん」
「だからとっさに、右腕を出してしまったのさ。とにかく必死で、何も考えずに」
「……ん」
「僕はA型か、でなければO型だったらしいね。使徒に血は流れていないかもしれないから、よくはわからないけれど」
「でも、助かったんだろ」
「今のところは」
カヲルの腰かけた重みで、白いベッドがかすかに軋む。見下ろした枕の上で小さな顔がやすらかに眠っていた。その傍らに手をついて、渚カヲルは悲しげに微笑む。
「僕はどうすればよかったんだろうね」
その指先がシーツに這い、持ち上げてさらさらと掬う髪は銀色だった。あの清潔に短く切りそろえられていた黒髪のなごりは、今は見られない。代わりにカヲルの髪が色を取り戻していた。明るい、よく実った小麦の穂を思わせる薄茶の髪だ。伏せる瞳はグレーで、モノクロの虹彩が余計に寂しげに見えた。
使徒の免疫システムがどうなっているのかなんてわかるはずもなく、ケンスケはその場に立ちつくすだけだ。白い病室。動かない友人と、それを見つめる同級生。穏やかでかなしいけれど、綺麗な光景だった。諾々と銀の髪を梳かれ、シンジは瞼をひらかない。もしその目が開いたときにあの青みがかった虹彩が失われてしまっているのなら、小さく上下する胸がずっとそのままであればいい。





(海)



「ええと、シな。んー、シグサムP220」
「ろぉ? ろ、ろ、あっそや、六甲おろし」
「し、しらたき」
「キール、ロワイヤル」
「る……ルマットリボルバー」
「あ、あぶら」
「ら、ら、ラー油」
「夕立」
「ち……っておい、」

本当に降ってきた。頭上にかざしたケンスケの手に、ぽつりと水滴が落ちる。


「うーわ、濡れたなあ」
「見事にな。こんなん久しぶりや」
「この時間に降るのは珍しいね。シンジ君、教科書は」
「平気だよ。ありがとうカヲル君」
横断歩道を駆け足で渡りきり、どこかの家の軒下で身を寄せ合って、四人はバケツをひっくり返したような雨に目をやった。ゲリラ豪雨という名で親しまれたこの悪天候は、すぐに通り過ぎる代わりに遭遇したら諦めるしかない。まさに叩きつけるような空からの洪水に、びしゃびしゃの髪をかきあげながらケンスケが「あー」と間抜けな声を出す。
「しりとり、どこまでやったっけ?」
「んなん忘れたわ」
「カヲル君が最後だよね?」
「そう、夕立。でもこの状況ではそれどころではなさそうだね」
トウジがぐええ、と声を出して湿りきったジャージを脱いだ。それを皮切りに他の三人も身体に張り付くカッターシャツを無言で脱ぎ捨てる。ケンスケにいたっては迷彩柄のランニングまで脱いでいた。青いシャツの裾をしぼって呆れるシンジの視線に気づいて、口を尖らせる。
「なんだよ。このくらい平気だろ。俺は露営で慣れてるぞ」
「いや、ここ往来だし。ていうか風邪ひくよ」
「ワシはこんくらいがちょうどええなー」
トウジがばっさばっさとジャージで仰いだりする。やめてよトウジ、寒いよ、と縮こまるシンジの肩に、カヲルがタオルを掛けた。
「大丈夫かい?」
「あ、ありがとう……あの、でもこのタオルって」
「たいしたものじゃないから」
「いや、ちがくて、カヲル君かばん持ってないのにどこから出したとか」
「シンジ君は気にしないでいいんだ」
そうだぜー、と上半身裸のケンスケが胸を張る。
「あんまり細かいとはげるぞ碇」
「は、は、はげるとか言うなよ!」
「何、気にしてんの? もしかして悪いこと言っちゃった?」
「そやなあ、センセのおとんて、ちょい生え際後退しとるような……」
「そそそ、そんなことないよ! やめてよトウジまで!」
「大丈夫だよシンジ君。もしどんなことになっても、君には僕がついてるから」
「あ、カヲル君どうも……、って、違う!」
あははは、と明るい声が響いた直後、いっそう雨の音が強くなった。笑い声がびくりと止まる。
「まだ、当分やまないな」
そっと呟くケンスケの声も雨にかき消される。白いしぶきが道路の色を霞めるくらいの本降りに、軒下の空気が冷たく静まり返った。身体を震わせたシンジはタオルの端を掴み、カヲルは生け垣にひざを立ててスニーカーの紐を直す。トウジは広げていたジャージを折り曲げ、肩に下げたエナメルにいれた。車も通らず、雨音と四人の息使い以外には何の音もしない。
「……しずかだね」
「うん、静かだ」
「怪談とかやったらハマりそうやな」
「するか? 怖い話」
「いいよ」
「面白そうだ」
「んじゃ、これはおれが友達の親のいとこから聞いた話なんだけど……」


しゃがんで話し始めるケンスケの声を聞きながら、シンジは軒下に忍び寄る雨の音に耳を傾けていた。車が一台、水しぶきを立てて通り過ぎる。
ぼうっと眺めていたシンジの耳から音が消えていく。ケンスケの声が遠くなり、代わりに激しい雨音が耳を支配する。もう夕暮れがはじまって、あたりは青く沈みはじめていた。音のなくなった世界で3人は一枚の絵みたいに見える。
ケンスケの話は佳境にはいっているようだ。両手を開いて、動作を交えながら熱弁する横顔を生け垣に腰かけたカヲルが静かに見つめている。いつのまにか鞄を地面に敷いてトウジがあぐらをかいていた。
トウジがケンスケを指さし、それに答えたケンスケが肩をすくめ、三人が笑う。無声映画のような世界のなかで雨だけが騒がしかった。ざあざあと迫ってくる音は何かに似ていて、目を薄く閉じ、そうか、とシンジは心の中で呟いた。海だ。波の打ち寄せる砂浜の音だ。貝殻を耳にくっつけた時にもこんな音がする。


「それで、窓を振り返ると……わぁっ!」
「うわああっ!」
「うぉっ!?」
「!」

飛び上がったシンジにみんながびっくりした。つられて声を出したトウジは勿論、カヲルまで腰を浮かしている。いつの間にか背中に回って脅かしたはずのケンスケも、勢いよく振り向いたシンジに目を丸くした。
「なんだよ碇、そんなこわかったのかぁ? いきなり叫ぶからちょっとビビったじゃんか」
「い、や、ごめん」
何気なく返事をして、シンジは当たりの騒がしさに目を見開いた。ごうごうと鳴る下水道。打ちつけられた水のしぶきに、さわさわと生け垣の緑が揺れる気配。うるさいくらい、あたりを取り巻く雨の音。
「どうかしたかい?」
カヲルが顔を覗きこむ。なんでもない、と頭を振った。


「ち、チョコレート」
「と、とんび」
「び……ビンタ?」
「太陽」
「う、ウガンダ共和国」
「トウジよくそんなの知ってんな。くさりかたびら」
「何それ……えっと、ラジカセ」
「晴天」
ほら、と指さす先に見事な夕焼けが広がっている。雨上がりの空気はいつもより遠くが見えた。四人はしりとりの続きを忘れて、空にたなびく雲が赤く染まるのに見とれる。
「明日は晴れるよ、きっと」
「そうだな。明日って、体育水泳か」
「暑くなりそうやなあ」
「ねえ、今度海に行こう」
唐突に切りだすシンジに三人が振り向く。
「……海、なあ。そういやこの頃行っとらんな」
「いいね。最近は特に暑いから、きっと気持ちがいい」
「俺もいいけどさ。碇、いきなりどうしたんだよ?」
「いや、まあ」
なんとなく、と笑って返した。冷えた歩道に溜まった雨水に、茜色の雲が映り込んでいる。シンジは口をそっと開いて、生ぬるく湿った空気を吸った。やっぱり、夏の海が呼んでいる感じがする。




2012 9 2

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