※五年後



むせ返る様な暑い夏の日、僕等は出会った。



煩い程の蝉の声、目に痛い程の緑、眠気を誘う穏やかな木陰、凛とした朝顔。
その統べては耳に、瞼に、身体に色を残して褪せる事はない。

…臆病な僕を、見透かした様に真っ直ぐに射る鋭い視線も。





(届いた想いは抱きしめて)





東京の夏は湿気混じりのサウナ状態。
コンクリートは足元歪む蜃気楼。
じんわりと張り付く汗は苛立ちを増加させるばかり。

今日の講義は一限から。
この時間の満員電車に慣れたといっても汗が滲んだ肌がぴっとりとくっつけば効いている筈の冷房は感じない。
ぎりぎりで駆け込んだ電車、恥ずかしさを隠すように周りに背を向ければガラス越しにホームが見えた。


ー…健二さん、待って!健二さん!


今だに悲痛な彼の声が表情が視えてしまう。
息を吐き出してその全てをシャットダウンする事に全力を集中する。



もうあの夏の日から五年の月日が経った。

あれから僕は高校を卒業し、大学への進学をきっかけに一人暮らしを始めた。
実家は近いとはいえ待つという感覚がなくなれば一人とは良いものだ。最初から誰もいない。
そう、つまりはそういうこと。

僕は逃げ出したんだ。



佳主馬くんに別れを切り出したのは僕の方からだった。

高校に進学してからも、佳主馬くんは忙しい筈なのに時間を見付けては東京に来ていた。

『会いたいのに何で我慢しなきゃいけないの。健二さんが好きだから。他に理由なんかないよ』

そう言って、怒ったように眉根を寄せて痛い程両肩に置いた手に熱を込めて、彼は僕を包む。身体で、心で。

会うのに時間が空くせいか、僕の目に映る彼の成長は顕著だった。

僕が彼に視線を合わせようとしていた度見えていた彼の髪が次第に自然に目が合う距離になり、今は僕が見上げないと視線が合わない程。
細かった肩幅は僕より広く、逞しくて、鍛えているせいか引き締まっていて。
声なんか出会った頃からは想像出来ない程、低く掠れて。
褐色の肌に綺麗な黒髪はただ人を引き付ける魅力を充分に発揮していて。

対照的に僕は何も変わっていない。
隣を歩くのは何故僕なのだろうか、僕なんかで良いのだろうか、なんてとっくに考え飽きた。


『健二さん、人が凄いからちゃんと前見て歩いてね』


『ぼ、僕いつも前見てるよ?!』


『あ、こっちなら見てても良いよ?健二さんは俺が引っ張るから』


最後に一緒に出掛けたのは山手線沿いにある人混みの凄い街。
彼は手を痛くない程度に握り締めて、心配するようにこちらを振り返っては艶っぽく笑う。
その度に僕の心臓は跳ね上がるんだけど、擦れ違った女の人が振り返って色めき立つのも度々視界に入る訳で。

佳主馬くんは知らない。
僕がどろりとした汚い感情を胸に積もらせているのを。

『どうしたの?健二さん』
なんて優しく声を掛けてくれる君の手を強く握り締めてごまかすなんて。
せめて、寂しいとか何か言葉にすれば何か変わったのだろうか。
でも、そんな独りよがりな感情口に出したところで押し付けにしかならないのも知ってる。
ショーウインドーに映った並ぶ自分達を見ると僕は息が詰まるんだ。

彼に相応しいのは、僕じゃない。
彼は僕の心を綺麗と言ってくれてるのに、僕はそれには答えられない。


苦しくて、僕は僕から繋いだ手を離した。
…きっと距離を置いたら彼だって気付く筈だから。
四つ下の彼を僕が縛り付けちゃいけないんだ。



ー次は…、ー


降りる駅のアナウンスで、はっと我に返れば立ち塞がる人に謝りながらなんとか車内から脱出する。
背後で扉が閉まり、安堵の息を吐き出したのもつかの間。
顔を上げた途端、僕は血の気が引いていくのを感じた。


「佳…主馬、くん…?」


今日は平日、それも朝。
確かに彼は僕の講義の予定を知っているとはいえ、此処にいるのはおかしい。
都合の良い幻覚か、はたまた似ているだけなのか。

彼は僕の手を掴み上げると混んだ人を避けるようにしてホームを進んでしまう。いけない、こんなんで胸が高鳴る、なんて。
ぎりりと掴まれた腕が軋んで僕は思わず声を上げた。


「痛っ、佳主馬くん、」


聞こえてないのか、前だったら絶対佳主馬くんはこんな事しないのに彼は無言のままずんずんと先を行く。
怖い。
彼の後ろ姿からは何を考えているのかなんて全く分からなくて、苛立ちばかり伝わって来て。

ホームの人が疎らな少し拓けた場所に辿り着けばいきなり歩みが止まった。
付いていくのに必死だった僕は遠慮なくその広い背中に顔面衝突する。


「…ねぇ、健二さん。俺があんなんで納得すると思う?」


くるりと振り向いて、彼はそう言った。

『ごめんね、佳主馬くん。もう会えない』
そう言って閉まる直前の電車に乗り込んだ僕は、返事を聞くのが恐くて彼からの連絡を断ち切っていた。
その話の続きをわざわざしに来たというのだろうか。
こんな酷い僕と話をする為に。
決心が鈍りそうで無言で俯くと今だ握られた手に力が篭った。
まだ僕は彼と繋がっていれるんだ。


「言ってくれなきゃ分からない。俺、何かした?」


ぶんぶんと首を横に振るのが精一杯で、彼の顔は見る事が出来ない。


「誰かに何か言われたの?それなら俺が言いに行くけど」


それも違う、と再度首を力強く振る。





「……それとも俺が嫌いになった?」


…ぽつりと今にも泣きそうな声が聞こえた。
反射的に顔を上げれば、今度は佳主馬くんは俯いて、僕の手を両手で取り願うようにそっと握り締めた。


「嫌いになったならそう言って。俺、貴方にだけは迷惑掛けたくないから、離れる努力するから」


「っ…違!違うよ!君は、凄い素敵な人で、僕なんかよりふさわしい人が沢山いる、から!」


ぎりり、と軋んだ心が声を押し上げて、気持ちが一緒に言葉になる。
違う、違うんだ、僕は佳主馬くんにこんな顔させたい訳じゃなくて!


「…健二さん、それ、本気で言ってる?」


「…あ」


不意に顔を上げた彼は鋭い視線で僕を射ると、低音で吐き捨てた。
びくりと身体が強張る。


「俺だって怒るよ。俺は、健二さんの本音が聞きたい」


「ぼ、僕の本音なんか…」


「健二さん」


何時だって彼は真っ直ぐに見てくる。隠していた気持ちは背中を押されて言葉になっていく。


「佳、佳主馬くん、凄く変わった、よね。格好良いし、あのキング・カズマだしモテるのは分かってるんだ。好きな人が人気なのは…僕も嬉しい、し…でも…、その、凄く遠い人になっちゃったみたいで…」


「…それ、本当?」


「う、うん…」


恐る恐る見た佳主馬くんの瞳が少し和らいだ気がした。
瞬間、彼は僕の手を両手で握ったまま、脱力したように大きく息を吐いて座り込む。


「か、佳主馬くん?!」


引きずられるように座り込めば瞼にちゅ、とリップ音と暖かい感覚。


「好きだよ、健二さん。凄く好き。言っても言っても足らないくらい。どうやったら伝わるのか何時も考えちゃうくらい。…健二さんは?」


「……僕、だって」


人も多いホームって事よりも、この先を口にする方が恥ずかしい。
でも、座り込んだまま視線を投げ掛けてくる瞳に不安に見付けたら案外あっさり言葉になってくれた。



「好き、だよ」



「…だめ、許してあげない」


「え、えぇ!」


「うそ」


予想外の返答にのけ反れば、彼は密かに笑んで立ち上がる。


「うん、健二さんをこんなに不安にさせて追い詰めちゃったの、俺のせいだから」


浮かれちゃってたみたい。健二さんと付き合えるなんて夢だったら。気づかなくてごめんね。


徒然と続いた言葉に頬が熱くなっていく。
でも、僕は、佳主馬くんを傷つけちゃったし、やっぱり、


「で、でも…!」


「もう聞かない」


ちゅ、と再度唇に何か触れたと思えば視界には佳主馬くんの意地悪く微笑んだ表情しか映らない。
思わず見取れちゃったものだから我に帰るのが遅れてしまった。


「…佳、佳主馬くんが言わせてくれないんじゃないか!」


「ねぇ健二さん。分かってないなら分からせてあげようか?」





(俺は貴方を離してあげる気ないんだよ)


そして彼は、五年前と変わらない羨ましい程、眩しい程、怖い程の言葉を僕にくれました。





「あれ、でも佳主馬くん今日学校だよね。授業は?」


「……」


「あぁ、さぼっちゃだめだよ?!」


「行ってもどうせ集中出来なかったって!健二さんのせいで!」


「…う、それを…言われると…。…今日だけ特別だからね?」





彼は、僕の身長より高くなり、僕の肩幅より広く、僕より逞しくて引き締まっていて、僕達が出会った頃より声は低く掠れていて。

…その声で柔らかく僕の名前を呼ぶ所は変わってなくて、優しく抱き留める腕は変わっていませんでした。




必死に追い掛ける佳主馬くんと成長する彼が遠く感じる健二さんの話。




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